貧乏暮らしから巨額の資産家に・・・
バフェット流投資を体現した日本人 本多静六の教え
提供元:コルク
明治から昭和にかけて学者や造園家として活躍し、その稼ぎを貯蓄して投資に回し、巨額の富を築いた本多静六。貧乏生活から出発して巨額の資産を築いた彼の「お金の教養」について、著書「私の財産告白」を基に紹介する。
<掲載元の記事はこちら(三田紀房公式サイト)>
<ポイント>本多静六が説く「お金の教養」
・「四分の一天引き貯金法」で資金を貯める
・投資の心得は「二割利食い、十割益半分手放し」
・決めたルールは絶対に破らずに実行する
積極的な倹約を試みる「四分の一天引き貯金」
本多静六という名前を聞いたことがあるだろうか?
明治、大正、昭和にかけて林学博士として大学で教鞭を執る傍ら、造園家として活躍し、東京の日比谷公園や明治神宮、大阪の住吉公園や北海道の大沼公園など、数々の設計を手掛けて「公園の父」と呼ばれた男だ。
その一方で彼は、独自の貯蓄投資法と生活哲学を実践し、40代にして100億円余り(※現代の価値に換算)の財産を築くことに成功した。
本多は恵まれた環境からスタートしたわけではない。
むしろ少年時代から学生時代にかけてひどい貧乏生活を続け、その苦痛を身に染みて感じた人間である。貧乏から抜け出そうと奮励努力し、編み出した巨額の富を築く方法は、一般の会社員にもきっと役立つはずだ。
まずは、投資に回す資産の貯め方から紹介していこう。
本多が貧乏な青年時代を経て、大学の助教授となって月給を取るようになっても、家族のほかに寄宿者が多く、生活は常にぎりぎりだった。何とか貧乏から抜け出したい本多は、こう考える。
「貧乏を征服するには、まず貧乏をこちらから進んでやっつけなければならぬと考えた。貧乏に強いられてやむを得ず生活をつめるのではなく、自発的、積極的に勤倹貯蓄をつとめて、逆に貧乏を圧倒するのでなければならぬと考えた。」(本多静六『私の財産告白』実業之日本社より)
“自ら貧乏を圧倒する”ために彼が編み出したのが、「四分の一天引き貯金」。あらゆる定期収入を、入ると同時に四分の一を天引きし、貯金してしまう。さらに臨時収入は全部貯金して、通常収入増加のもとに織り込むという方法だ。
式で表すと、以下となる。
貯金=通常収入×1/4+臨時収入×10/10
彼は25歳でこの貯金法を始めた。まだ少ない初任給をさらに切り詰めたのだから、生活は困難を極めた。
「給料四十円もらったら、三十円しかもらわなかったと思って十円天引きすればよろしい。米が四俵獲れたら、三俵しか獲れなかったと思って一俵分を別にすればよろしい。米のほうは今年より来年が殖えるというわけにもいかぬが、給料のほうならまず順当にいけば必ず増える。辛抱しさえすればだんだん天引き残余が増してくるのである。」(同書より)
月末になると現金が底をつき、毎日のおかずが胡麻塩になり、子供たちが泣き出した。しかし、本多は「この際この情に負けてはならぬ」と歯をくいしばり、家族にも四分の一天引き貯金の理屈の正しさを説き伏せた。「せめて子供たちだけは」などという甘い感情を一切廃し、収入の四分の一を「なかったこと」にし続けたのである。
四分の一天引き貯金を2~3年続けると、預けた金の利子が入ってくる。利子は通常収入として、四分の一は貯金し、四分の三は生活費に回すことになるので、生活は段々楽になっていく。月給と利子が“共稼ぎ”を始めたのである。
デフレが続く平成の世では、給料は上がりにくく、銀行に預けたところで金は殖えない。現代では通用しない貯金法だと思うかもしれない。
しかし、本多が説く四分の一天引き貯金の神髄は、収入の一部をなかったことにすることで、あえて貧乏の辛苦をなめる点にある。
「子供のとき、若い頃に贅沢に育った人は必ず貧乏する。その反対に、早く貧乏を体験した人は必ずあとがよくなる。つまり人間は一生のうちに、早かれ、おそかれ、一度は貧乏生活を通り越さねばならぬのである。だから、どうせ一度は通る貧乏なら、できるだけ一日でも早くこれを通り越すようにしたい」(同書より)
貧乏な貯金生活の最もさわりになるのが、「虚栄心」だと本多は言う。
人よりいい暮らしがしたい。少なくとも、いい暮らしをしていると見せかけたい。そんな上っ面の虚栄心が、将来の大きな成功の邪魔をする。だからこそ、若い頃の勤倹貯蓄生活が重要なのである。
売り方のルールとリスク分散を徹底する
まとまった貯金ができたところで、本多はそれを頭金に投資を始めた。投資対象としたのは、株式と土地山林だ。
当時、政府が力を入れていた鉄道事業がよいだろうという恩師の教えに従って、まずは日本鉄道株を買った。12円50銭を30株(計375円・現在の価値で約60万円)買い入れたこの株は、鉄道の活況によって払い込みの2倍半の価格で政府買い上げとなった。
さらにその儲けで、自身の専攻学科と関係が深い秩父の山奥の山林を買収した。手つかずの天然美林は、日露戦争後の好景気で木材が大値上がりした際、買い値の優に70倍の値段となり、一部を売却。
爪に火を点す思いで貯めたカネは、こうして雪だるまのごとく殖えていった。
本多は思惑による「投機」を嫌い、あくまでも堅実な「投資」に徹した。倹約した金を使うのだから、ムダにしないよう分散投資でリスクヘッジにも努めた。「投資の神様」といわれる、ウォーレン・バフェットの考え方に似た点が多い。
堅実な投資を実行するために、本多は投資においても、自らのルールを設定した。特に株式投資においては、「二割利食い、十割益半分手放し」という方法を実践している。
ある株を買おうとするとき、そのための金を用意したうえで、まず先物取引で様子を見る。引き取り期限(最終決済)が来る前に買い値の2割益が出たら、キッパリ利食い転売する。それ以上は欲を出さず、2割の益金を元金に加えて銀行定期に預け直す。
引き取り期限が来て買った株を長期保有していたら、買い値の2倍以上になるような暴騰を始めることがある。そうしたら、すぐさま手持ちの半分を売る。元金分をすべて預金に戻して確保しておけば、後に残った株が反動で暴落しようが、損は出さない。さらに高騰したときは、余分に儲かっていく。
「私が最初に選んだのは日本鉄道株であるが、その後私鉄には漸次大きな将来性が認められなくなったので、瓦斯、電気、製紙、麦酒、紡績、セメント、鉱業、銀行など三十種以上の業種にわたり、それぞれ優良株を選んで危険の分散に心掛けた。これもみなある程度の成功を収め、のちには私の株式総額財産は数百万円にも達するに至った。」(同書より)
「二割利食い、十割益半分手放し」のルールを厳格に守り、さらにリスク分散もきっちり行う。こうして本多は、株式投資だけで数百万円(現在でいう数十億円)の資産形成を成したのである。
「四分の一天引き貯金法」も「二割利食い、十割益半分手放し」も、ルール自体は非常にシンプルで、やるべきことは明確である。ただ、それを続けることが難しい。
毎日必ず日記をつけようと決めながら、実行できない人がほとんどであるように、簡単なルールほど日常生活に紛れてすぐに忘れてしまう。
おそらく今も昔も、投資は「有効なルールを守り、実行する」だけでいい。本多がマイナスからスタートして一代で巨額の財を築くことができたのは、貯金や投資の手法を考え付いたからではない。それを愚直に実践し続けたからである。
本多が学者でありながら投資で財を成していることが広まるにつれ、やっかんだり蔑んだりする人々が多く出てきた。そういう批判の声に対して、本多は次のように苦言を呈している。
「カネと言うものは重宝なものだ。まず一応、だれしもあればあるに越したことはない。ところが、世の中には、往々間違った考えにとらわれて、この人生に最も大切な金を頭から否定してかかる手合いがある。(中略)これはことに、日本人の間に昔からあったわるい癖で、いわゆる武士は食わねど高楊枝といった封建思想の余弊である。しかも、それらの連中は全く金を欲しがらぬかといえば、さにあらず、金にたいしてはいっそう敏感ともいうべきで、敏感なればこそ人の懐ろ具合まで気になるわけなのである。」(同書より)
六十歳となり退官した本多は、「人並外れた大財産や名誉は幸福そのものではない」と悟り、数百億円という資産のほぼすべてを、社会事業に寄付した。そのほとんどが匿名であったという。
そこからさらに学問を重ね、人生の最期を貧しい中にも満ち足りた学究生活の中で送った。
カネの有用さや生かし方、そして恐ろしさ、そのすべてを知り尽くした男・本多静六。彼が85歳で人生を振り返り、ウソ偽りない「本当のハナシ」を披露しているのが、『私の財産告白』である。
彼が残したお金に関する思想は、今なお「生きた学問」として得るものが多い。投資に限らず、何か1つのことで「成功したい」と願うすべての人にとって、大きな学びがある名著である。
※本稿に出てくる物価の換算は、日本銀行HP「日本銀行を知る・楽しむ」の表「基準:昭和9年~11年平均=1」の「企業物価指数」および「消費者物価指数」を参照。
(本多 静六プロフィール)
ほんだ・せいろく
1866年、埼玉県生まれ。苦学の末、1884年に東京山林学校(のちの東京農科大学、現在の東大農学部)に入学。一度は落第するも猛勉強して首席で卒業。その後、ドイツに私費留学してミュンヘン大学で国家経済学博士号を得る。1892年、東京農科大学の助教授となり、「4分の1天引き貯金」と1日1頁の原稿執筆を開始。1900年には教授に昇任し、研究生活のかたわら植林・造園・産業振興など多方面で活躍するだけでなく、独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築く。1927年の定年退官を期に、全財産を匿名で寄付。その後も「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもと、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した。1952年、85歳で逝去。
記事提供/『コルク』
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