よりよい金融市場を構築するための技術

「架空の市場」が、金融市場の安定に貢献する

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AIを応用した研究分野の一つに「人工市場」がある。比較的新しい分野なので、一般にはあまり知られていないかもしれないが、金融市場の制度設計につながる研究として大きな期待がかけられている。

AI特集企画の第3回目はこの分野のエキスパートであるスパークス・アセット・マネジメント上席研究員の水田孝信氏に話を聞いた。

聞き手:国府田昌史

現実の「失敗」を減らすためのシミュレーション

──「人工市場」と聞いてピンとくる人はまだまだ少ないと思います。まずはどのようなものなのかお話しいただけますか。

ひとことでいえば、コンピュータ上に架空の金融市場を作り、いろいろなシミュレーションを行うというものです。

金融市場の安定的な運営には、どんな規制やルールを設けるか、つまり「設計」が非常に重要です。うまく設計すればきちんと機能するし、そうでないと問題が生じます。使い勝手が悪いとか、安定性に欠けるとか……。

金融庁はよりよい市場にするため、いろんな改革を行ってきましたが、いつもうまくいっていたわけではないのではないでしょうか。いざ導入したら全く効果が表れなかった、思わぬ副作用が生じてかえって混乱を招いたといったケースもあったと思います。

そういった失敗や副作用を少しでも減らすために、架空の金融市場でシミュレーションするためのツールが、「人工市場」です。

──新しいルールを導入したり、制度改正を行うときには、当然、専門家が議論を尽くすわけですよね。それでもうまくいかないことがあると・・・・。

そう、そこが金融市場の奥深いところなんです。専門家でも想定できないようなことが往々にして起こります。

──具体的にはどんなことですか。

経済学をかじったことのある人なら、「予言の自己成就」という言葉を聞いたことがあると思います。たとえ根拠のない予言でも、みんながそれを信じて行動を起こすと、その予言はしばしば現実になる、という説です。これに近いことが金融市場ではよく起こります。

例えば、ある投資家が「この銘柄は絶対に上がる」という思い込みにとらわれ、大量に株式を購入したとします。するとその噂が広がって、大勢の人々がその銘柄に群がり、結果、本当に株価が跳ね上がってしまう−−。その企業の業績云々でなく、投資家の行動によって、株価が変動するわけです。

これは決して珍しいことではなく、2008年のリーマンショックのときも少なからず「予言の自己成就」が働いたといわれます。

──そうしたことは専門家でも予測できないと。

いくら金融のメカニズムを熟知していても、投資家の気まぐれな行動までは予測できませんからね。

それに実はこの「予言の自己成就」を直接取り扱える手法は、今のところ人工市場によるシミュレーションしかないんです。制度の変更が投資家の行動をどのように変え、それがどのようにボラティリティ(価格変動幅)や取引量に影響を与えるかを直接試してみることができる唯一の方法なのです。

投資家の行動がまわりにどんな影響を与えるのか、どう波及していくかなども理論的に解明するのは難しいんです。

──だから、コンピュータ上でシミュレーションする必要があるわけですね。

その通りです。

──でも、人工市場では「投資家の気まぐれな行動」まで予測できるんですか。

いや、さすがにそれは無理です。でも、投資家の行動がほかの投資家にどんな影響を与えるかなどはシミュレーションできます。

──どういうからくりなんでしょう。

私たちが人工市場でシミュレーションを行うときには、まず株式売買に参加する架空の投資家を作ります。この投資家のことを「エージェント」と呼ぶのですが、通常エージェントはひとりでなくて複数、多い場合は1000体ほど作ります。

しかも、エージェントそれぞれに個性を与えます。ひと口に投資家といっても、実社会にはいろんなタイプがいますよね。ファンダメンタル(企業業績)分析重視派もいれば、テクニカル分析重視派もいる。少額で楽しむ人もいれば、大金を投じる人もいる。そうしたいろいろなタイプを用意します。そうして彼らが価格決定メカニズムをもつ場所、つまり架空の取引所で売買するようプログラムを組むわけです。

──なるほど。

で、ここが肝心なのですが、エージェントは自ら売買を行ったり、ほかの投資家の行動を見たりして学習していきます。当然、学習すると新たな行動を取るようになります。そして、そんな状況ができあがったら、いよいよ市場の制度やルールを変えるとどうなるかという実験を行います。

──制度やルールを変えると、エージェントの行動パターンも変わるわけですね。

そういうことです。しかも、先ほど話した「予言の自己成就」もきちんと反映されるので、理論的に解明されていないような投資家の行動変化もシミュレーションすることが可能になります。実際にその制度を変更したら投資家がどのように行動する可能性があるのかがわかるわけです。

──それが、その制度を導入するか否かの判断材料になる……。

投資家の行動パターンが変われば、ボラティリティや取引量が変わります。もし制度を変更してボラティリティが異様に高くなったり、取引量が激減したら、その制度変更は適切とはいえません。当然、見合わせるべきという結論になるわけです。

実際の制度にも影響を与える

──水田さんは2010年ごろから人工市場の研究を行っていますが、この研究によって実際に制度改正が行われたことはあるのですか。

私たちの研究がきっかけになっただろうなというケースは、結構あると思います。例えば呼値の刻みの変更などです。

──注文価格の刻みの最小単位、つまり最低いくら単位で値段が動くかということですね。
2013年から東京証券取引所と共同で、呼値の刻みの研究を行いました。当時、東証の呼値の刻みは1円刻みでしたが、証券会社などが独自で運営する私設取引システム(PTS)ではその10分の1程度の単位で購入できました。そこで、呼値の刻みが大きい市場と小さい市場の出来高シェアの移り変わりを、人工市場を用いてシミュレーションしたのです。

結果、小さい市場のシェアが増加していくことがわかりました。投資家に見立てたエージェントの多くが、呼値の刻みの小さい市場に流れていったのです。

──東証は2014年1月と7月の2回にわたって呼値の刻みの変更を実施しています。一部の流動性の高い銘柄に限り、10銭刻みで注文することが可能になりました。

そうですね。ただ、それは単に出来高シェアの問題だけではないよう思います。実は呼値の刻みを変えてシミュレーションを行った結果、意外な可能性が判明しました。呼値の刻みが大きいと、ボラティリティが大きくなる可能性が浮上したんです。これは取引所にとってあまり都合がよくないことであり、そのために変更を検討したという面もあると思います。

──なぜあまり都合がよくないのですか。

取引所が決めたルールによって、価格の変動幅が必要以上に大きくなってしまうのはあまり望ましくはないでしょう。それによって投資家が想定していた以上の損失を被る可能性もあるわけですから。

──なるほど。でも、人工市場でシミュレーションを行っていなかったら、誰もその可能性に気づかなかったわけですね。

その通りです。人工市場で実験したことで、そうしたことが起こり得るというメカニズムが解明されました。

──従来のデータ分析などの手法では明らかにできなかったことも人工市場で解明できる可能性があるわけですね。

はい、ただし、人工市場は万能かというとそうではありません。例えばアベノミクスはどうなるかといった特定事項に関する未来予測はできないし、株価を予測するようなこともできません。

──それでも非常に意義のある研究といえそうですね。

それは間違いありません。私たちの社会にとって金融の安定というのは重要なテーマです。かつてのバブル崩壊のような金融危機を起こしてはならないのです。そのためにはさまざまな対策が必要ですが、健全な取引ができる市場を構築することも大事な要素です。

そういう意味では、過去に導入されたことのない規制や制度の有効性を判定する一つのきっかけとなる人工市場の役割はますます大きくなっていくでしょう。

──直接、投資活動に関わるものではないので、あまり興味がもてないという人もいるかもしれません。しかし、取引をする場が安定してこそ、安心して売買できるわけですから、一般の投資家にとっても無関係とはいえませんよね。

おっしゃる通りです。私も皆さんが安心して投資に打ち込めるよう、さらに研究に精を出すつもりです。

<プロフィール>

スパークス・アセット・マネジメント株式会社
運用調査本部 ファンドマネージャー兼上席研究員
水田 孝信氏

2004年スパークス・アセット・マネジメントに入社。アナリストを経て、ファンドマネージャーに。11年から14年まで東京大学大学院工学系研究科博士課程に在籍し博士(工学)取得。ファンドマネージャーとして働きながら人工市場の研究に従事した。17年より上席研究員兼務

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