あなた自身が大きな「資産」かも知れない。個人の株価「人的資本」について考える
提供元:楽天証券(トウシル)
※この記事は2019年1月22日にトウシルサイトで公開されたものです。
「人的資本」とは?概念とその価値について考える
個人の経済生活を考える上で「人的資本」は有用な概念だ。
人的資本は、将来の稼ぎ(将来受け取ることが期待される収入)を割り引き、現在価値にして合計したものだ。正確に計測や計算することはできないが、個人の稼ぐ力を株価のように評価したものだと考えるといい。
例えば、健康で安定した職に就いている若いサラリーマンなら、貯金をほとんど持っておらず、金(カネ)の運用を考える上で人的資本の重要性を強調することがある。
人的資本について、今回あらためてこの概念について考えてみるきっかけになったのは、モシェ・ミレブスキー著「人生100年時代の資産管理術」(鳥海智絵監訳、野村證券ゴールベース研究会訳、日本経済新聞出版社刊)を読んだことだ。個々人の人的資本の大きさとリスクの性質を考慮した上で、資産運用を中心に金融に関する意思決定について書かれた本で、米国の制度や金融商品と、日本のそれらが異なるので直接応用できない話題もあるが、人的資本についてあれこれ考えてみる上で良い本だった。
また、邦訳のサブタイトルに「リタイア後のリスクに備える」とある通り、人的資本の価値が消滅するリタイア後の金融資産の管理についても、かなり詳しく書かれている。
人的資本という概念自体は、ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・S・ベッカーが最初に考案した。例えば、教育投資に人的資本の価値を向上させる効果があることなどを説明し実証した。
<人的資本の価値について主な性質>
1.より収入の高い職業に就くと人的資本は増大する
2.当面および将来予想される収入が同じでも、収入の安定性が高い方が人的資本の価値は高い(将来の収入を現在価値に引き直す割引率は将来収入の変動リスクが小さい方が小さくなるから、現在価値が高くなる)
3.教育投資(特に若い頃)によって、人的資本の価値は向上する傾向がある
4.健康への投資によって将来働ける期間や労働の強度を大きくすることで、人的資本の価値を向上させたり、低下を抑えたりできる可能性があるといったことが大まかに言える
なお、人の個性や人生はさまざまなので、教育や健康以外にも、人間関係だとか美容だとか、場合によってはある種の休息に対する投資も「人的資本の価値を向上させる有効な投資だ」と言える可能性もある。
あなたは株か?債券か?
ところで、前掲書の原題は「Are You a Stock or a Bond ?」なのである。本欄の読者にこのタイトルの和訳は不要だろうが、「あなたは株式ですか、債券ですか?」と尋ねている。
この本で挙げられていた印象的な例を簡単に紹介しよう(以下139ページ)。例えば、共に、年収が10万ドルで年齢が45歳の証券会社社員と終身資格を持っている大学教授がいるとすると、証券マンは「株式」で、大学教授は「債券」なのだという。
なぜなら、証券マンの仕事は株式市況が好調な時に収入が増えるし概して不安定であるから「株式的」であり、大学教授の方は将来の収入が安定しているから「債券的」なのだ。収入は同じでも、証券マンよりも大学教授の方が、将来収入のリスクが小さいので、割引率が小さく、人的資本の価値は大きい。
さらに面白いのはこの先で、例えば、一定の仮定の下、共に25万ドルの退職資産(確定拠出年金など)を持っているとした場合、著者のモデルの計算によると証券マンは退職資産の60%を株式で運用し、40%は債券と安全な固定利付き資産で運用することが推奨される一方で、大学教授には全体が70万ドルになるように45万ドルを借りて全て株式で運用する、退職資産の実に280%のリスク資産投資が推奨される。
ちなみに、生命保険は「人的資本のヘッジ」として扱われており、上記のケースで適正とされる生命保険の額は45歳時点で大学教授が190万ドル、証券マンが130万ドルであり、55歳時点ではそれぞれ80万ドルと40万ドルだという。証券業界に身を置く者としては、少々切ない思いになる例だが、考え方にはおおむね納得できる。
細かな計算過程は明らかにされていないが、著者は、さまざまな仮定を置いてモンテカルロ・シミュレーション(※)を行って計算したものと思われる。
※モンテカルロ・シミュレーションとは?
式を逆算しても答えが求められないようなモデルについて、乱数を用いて数千回、数万回の計算を繰り返し、統計的に答えを出す手法。確率計算などに用いられることから、カジノで有名なモンテカルロの名がついた。
人的資本とレバレッジ
借り入れを用いて投資元本をふくらませることを「レバレッジを掛ける」と言うが、先の大学教授の280%のリスク資産投資、つまり保有退職資産額の180%におよぶレバレッジには、「本当にそれでいいのか?」と訝(いぶか)しく思う読者がいらっしゃるかも知れない。
「借金」というと聞こえが良くないが、事業会社にあっては、そもそも事業を始めるために、あるいは成長を加速させるために、さらには自己資本に対する利益の効率を高めるために、借金して投資することは必ずしも悪くないし、時には推奨されるし、最近では経営として褒められる場合もある。
借金による投資は必ずしも悪くないと筆者も思う。大まかに言って、(1)無理なく返済でき、(2)リスク・リターンを考慮した上で十分有利な投資先があり、(3)金利が十分低く、(4)金利上昇のリスクを十分吸収できる、といった条件を満たす借金は、企業にあっても個人にあってもおおむね「いい借金」と考えていいだろう。
本題から外れるが、教育投資のメリットを享受するのは教育を受けた本人だから、親ではなく、本人が将来の奨学金返済負担の形で教育費の一部を負担することは受益と負担のバランスを考えてみると割合フェアかも知れない。子供の奨学金のおかげで、親の老後への備えを手厚くする機会が増えるのだとすると、トータルで親子を見た場合の損得は悪いものではない。
無利子ないし低利で借りられるような奨学金は、教育投資で人的資本の価値を上げられるのであれば、少なくとも「使っていい借金」だろう。本人あるいは親に潤沢な人的資本があれば、将来十分な収入が生じるようになっても返済を急がずに資金を投資に回してもいいかも知れない。
奨学金同様に個人が比較的低利で資金を借りることができる住宅ローンが「いい借金」なのかどうかは、多くの場合購入する住宅の条件(最も大切なのは「投資の価格」としての住宅価格)と住居に関する本人の人生の事情によるだろう。
大きな人的資本に確信があるとしてだが、例えば住宅ローン並みの金利で調達した資金で行うことが可能なら、株式のインデックス・ファンドやREIT(不動産投資信託)などへの投資を検討するのは悪くない選択肢になる場合があると思われる。
加えて、レバレッジを掛けたと同等の効果を提供する金融商品が存在する。例えば、レバレッジの掛かった公募の投資信託やETF(上場投資信託)、上場や店頭を含めた各種のデリバティブ商品で運用することは、実質的に借金を利用してレバレッジを掛けたリスク資産投資と同じであるので、「実質的な借金の金利条件はどのようなものか」を把握した上で十分有利だと判断ができる。
そのため、「自分の人的資本の大きさに十分余裕がある」と自信を持って言える場合についてだが、投資を検討してもいいと筆者は思う。例えば、若くて健康で良い収入の定職があるサラリーマンなら、運用資金が不十分な場合に、実質的にレバレッジを使う商品を対象にして投資してみてもいいのではないかということだ。
ただし、頻繁にロールオーバーが必要なものは年当たりのコスト(追加的な金利に相当する)が高く付くし、ハンドリングも煩雑(はんざつ)でミスをするリスクもあるので、お勧めしない。じっと買い持ちできるようなタイプの商品が好ましい。
退職と人的資本
先ほどの大学教授と証券マンの例のように、人は、自分の人的資本の大きさとリスクの性質を考慮して資産運用を行う必要があるのだが、「退職」が文字通りこれから一切稼がなくなることを意味するなら、前掲書での人的資本の定義によると、人的資本の価値はゼロだ。
すると、退職以降は、保有資産と自分の人的資本との間の相関関係を考える必要がなくなる。退職前に大学教授をしていようと、証券マンであろうと、同じ資産額や同じ生活振りで、運用リスクに対する拒否度が同じであれば、退職後に持っている資産運用に関して、全く同じでいいことになる(証券マンとしては少しホッとする)。
この点は、高齢期の資産運用を考える上で十分認識しておくといい。金融機関のマーケティング戦略によるが、世間では、「個人個人のタイプによって適した運用も、運用商品やサービスも異なる(はずだ)」というイメージが強調されすぎている。
一方、詳しくは別の機会に譲るが、退職後の資産運用にあっては、おおむね資産をじっと持っているといい資産形成期の運用と異なり、資産を取り崩すので、相対的に退職後すぐの時期に、リスク資産のリターンがいいか悪いかで最終的な資産の保ち具合(資産が尽きる時点を「資産寿命」などと称して不安感をあおる金融商品のマーケティングに注意されたい。たいていは、ダメな商品だ!)が異なる「リターンの順序リスク」と呼ばれる問題がある。
また、想定外の長寿リスク、さらにはインフレリスクにどう対応したらいいかという問題もある。前掲書では、例えば変額保険の運用と特約を組み合わせることで各種のリスクに対処する方法が紹介されているが、米国と日本では保険商品が異なるし、米国にいたっては、どのような状況が起こっても問題のない素晴らしい方法や商品がある訳ではない。
また、特に日本の場合にそうだと思うが、保険商品や金融機関のサービスを使うと手数料コストが高くつく。例えば、終身で支給される公的年金を「長生きのリスク」への対応に使いつつ、運用自体は適切なリスクの大きさや低コストで行い、資産の取り崩しを自分で計画的に行う方法が、シンプルに実行ができ効率的だ。
こうした方法については、広く説明して、高齢者が金融機関やファイナンシャル・アドバイザーに過剰な手数料を取られないように、今後もサポートしていきたい。
理屈上は退職時点でゼロになる人的資本だが、この本にも例えば運用が想定ほど上手くいかなかった場合に何年か余計に働いて、人的資本をより長く活用する可能性を残すことで金融資産の運用リスクを吸収する話が出てくる。働くスキルと機会、そして健康と働く意欲の確保は、高齢期にあって大変重要だ。
金融機関の運用商品やサービス、生命保険などに資産管理を頼ると、コストが高くつく場合が少なくない。普通の人にとっては、自分の人的資本を大切に、適切に育て、かつメンテナンスして活用することが、おそらく狭義の資産運用よりも重要だ。
“人的資本を大切にすることは、人生の充実と満足にもつながるはずである。読者は、ご自身の人的資本を大いに大切にするといい”
(楽天証券経済研究所 客員研究員 山崎 元)
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