【渋沢栄一に迫る・前編】

渋沢栄一が調整役となり成立した「銀行制度」「株式会社制度」が明治以降の日本の発展を支えた

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2021年NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公であり、2024年から流通する新1万円札の顔にもなる渋沢栄一。明治維新以降、日本の金融システム構築に尽力したキーパーソンで、「近代日本資本主義の父」とも呼ばれています。とはいえ、何をした人物なのか、いまいちよく分からない人も多いかもしれません。

そこで、渋沢栄一の凄さを学ぶべく、日本の経済史に詳しい経済学者の横山和輝(よこやま・かずき)先生にインタビュー。横山先生は、東京証券取引所が主催する「渋沢栄一 特設展」の監修にも携わっています。こちら前編の記事では、渋沢栄一の偉業を深掘りします。

明治日本の金融システムの構築に尽力した渋沢栄一

――早速ですが、渋沢栄一とは何者なのでしょうか?

横山和輝(以下、横山):渋沢は、明治以降の産業化の土台となる金融システムの構築に尽力した人物です。日本は明治時代に突入して、20年あまりで繊維産業を軸とする産業化の素地を築き上げました。日本は、西欧諸国以外の国としては、類を見ない速度で経済発展を達成しました。この成長を可能にした理由の一つには、金融システムという要素があります。この金融システムの成立を物語るうえで、渋沢は欠かせない存在です。

――明治維新といえば、薩長出身の幕末志士が注目されがちですが、渋沢も日本を途上国から先進国へ押し上げた人物の一人ということですね。

横山:はい、日本の産業化の立役者の一人です。特に、日本の産業化の場合、基幹産業は紡績や生糸などの繊維部門だったわけですが、企業の大株主として外国人投資家が記されることは稀でした。もっとも、日露戦争時の戦費や一時期の電力債など、例外はあります。しかし、主力産業である繊維などは、外資の力を借りず、かつスピーディーに産業化を実現させました。この経験は、経済発展の事例としては珍しいです。

――なぜ、日本はそうした経済発展を実現できたのでしょうか?

横山:幕末の時点で、識字率が高かったことや、計算能力が定着していたことなどが指摘されています。しかし、大きな理由として考えられるのは、明治維新以後に構築された「産業化のための資金配分の枠組み」です。渋沢は、まさにこの枠組みづくりの貢献者でした。

――渋沢は、具体的にどのような枠組みをつくったのでしょうか?

横山:主に「株式会社制度」と「銀行制度」です。この2つは、いずれも現代においてなお、金融システムの根幹をなしている枠組みですよね。ちなみに、「渋沢が全部リードして、この2つの制度をつくった」というニュアンスで語られがちですが、それは少し異なります。実のところ、彼は制度整備の段階における調整役として動いていました。そして、この調整役という役割を通して、彼の凄さが理解できます。

――どういうところが凄かったと?

横山:渋沢は、彼なりの理想を持っていました。システムをつくる側の人間でしたから、それこそ自分が推奨する制度のゴリ押しもできたわけです。しかし、そうはせず、当時の日本の実情に合わせて柔軟に制度整備を促しました。というより、ゼロから制度を作ろうにも、徳川時代からの仕組みや慣例もあるわけですから、それを無視したら大きな反発や抵抗を招いたでしょう。とはいえ、周りの意見に耳を傾け、意見を集約して形にしていくというのは、至難の業だったと思います。

制度をゴリ押しせず、調整役に徹した渋沢の凄さ

――渋沢の調整能力の高さを物語る、具体的なエピソードはありますか?

横山:たとえば、渋沢が東京証券取引所の前身である、「東京株式取引所」の設立に携わったときのことです。イギリスやフランスの金融制度を学んだ渋沢は、株式の取引所の存在を知り、日本でも会社設立のために資金を集める制度の必要性を感じます。となると、普通は、西洋流の取引所制度を模倣すれば早いのでは、と思いがちです。しかし、結果として、単なる模倣の制度にはなりませんでした。

――それは、なぜでしょうか?

横山:徳川時代、8代将軍徳川吉宗のもと公設された、大坂の「堂島米会所」があり、そこでは帳合米取引と呼ばれる先物取引が行なわれていました。実は、この堂島米会所というのは、世界初の公設の先物マーケットでした。すでに、長年培われてきた日本ならではの商慣習があったわけですが、それと西洋流の取引所制度はどうしても合わなかった。それが分かった渋沢は、帳合米取引の慣行に精通した仲買人の声を聞きながら、フランス流の取引制度を活かしつつ、日本流の取引所制度を構築しました。

――もしフランス流の取引制度をゴリ押ししていたら、どうなっていたと思われますか?

横山:それを想像するのは、なかなか難しいことですが、やはり株式市場の発達に遅れが出たかもしれません。先物中心のルールに慣れている仲買人に、現物中心のルールを浸透させようとすると、摩擦を避けられません。だからといって、現物中心のルールに馴染みのある商人だけで、取引所組織を構成しようと思っても、人材不足のため非現実的でした

こうした事情を汲んだ渋沢は、自分の理想に固執せず、摩擦の少ない制度をコーディネートしたのです。そのことが、日本の産業化を性格づけたと思います。

銀行制度と株式会社制度が日本全体の経済の土台に

――実際、渋沢が基礎を築いた金融システムは、うまく機能したのでしょうか?

横山:銀行制度と株式会社制度が、明治期の産業化に果たした役割を振り返ると、非常にうまく機能したと思います。戦後昭和の日本では、企業は銀行との結びつきが強い一方で、株主の権限は弱いイメージがありましたよね。21世紀になってからようやくM&Aが盛んになるなど、株式市場の役割が高まった印象を持つ方もいらっしゃるようです。

しかし、実のところ明治大正時代さらに昭和初期は、株主の発言力が非常に強くて、企業の自己資本比率も高かったのです。大正昭和初期はM&Aも活発でした。だからこそ、財閥と呼ばれる同族企業グループが形成され、どのグループも持ち株会社がM&Aを通じて傘下企業の取引先をグループに抱え込んだわけです。

――では、投資家は、どうやって資金を投じていたのでしょうか?

横山:いわゆる「株式担保貸出」というかたちで、銀行が株式を担保にして、資金を貸し出して投資家に投資させていました。銀行貸出をベースに株式会社制度が機能して、2つの制度がワンセットで産業化を支えている状態です。しかも、当時は株式への分割払い込みが可能でしたから、株主が最初から満額払い込む必要もなく、中小の地主に対して資金提供を促しやすかったのです。

銀行制度と株式会社制度がセットになることで、もうひとつ面白いことが起きました。村落の代表者が村のために産業の振興を図り、さまざまな株式会社を設立していたのです。そうした会社のひとつとして、銀行が創設されます。村落に住む人も銀行に預金し、地主など地域の名望家(めいぼうか)が、貯まった資金をうまく使って、企業に貸し付けたり、株式を購入したりしていました。

いわば名望家の名声が担保になるかたちで、村落をベースにした株式会社の発展に銀行制度が貢献したというわけです。また、村落から都市の企業に出資することもありました。

――明治期の企業といえば、財閥や大資本家が力を持っていたというイメージが強いですが、地域社会でもそうした経済活動が行われていたんですね。

横山:そうですね。都市の商人の活躍はもちろんですが、村落の産業化に貢献した人たちの存在も忘れてはいけないと思います。銀行制度は、地域差を伴いながらも、株式会社制度の全国レベルでの発展とつながりながら、日本の経済発展を支えていたわけです。

明治維新以降、日本の命運を左右する貴重な時期に、銀行制度と株式会社制度をまとめ上げるという手腕を発揮し、日本のいち早い産業化という結果をもたらした渋沢は、やはり稀有な存在だと言えるでしょう。

(末吉陽子/やじろべえ)

<後編>
現代人が学びたいのは渋沢栄一の「多様性を重んじ、選択肢を生み出す姿勢」

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