社会課題解決と市場創造に挑むDX
船上の現金を無くし、新たな経済圏を生む。日本郵船がフィリピンでつくった電子通貨「MarCoPay」
創立から130年以上の歴史を持ち、日本の三大海運会社のひとつに数えられる日本郵船。海上運送の雄は、ここにきて積極的なDXを展開している。
そのひとつが、船員向け金融プラットフォーム「MarCoPay」の開発・実用化だ。同名の電子通貨「MarCoPay」による船員給与のデジタル支払いを可能にし、MarCoPayのアプリを使ってオンライン送金もできる。さらには、このアプリで船員向けのローンサービスも開始。運営はフィリピンに設立したマルコペイ社が行っており、このサービスもフィリピンの船員を中心に展開している。
なぜ、海運会社がこのような事業を始めたのか。市場に起きている潮流を深掘りする「マネ部的トレンドワード」。DX編の今回、マルコペイ社の社長兼CEOを務める藤岡敏晃氏の話をもとに、その取り組みを紹介したい。
世界中の船上にある現金は約800億円。そのコストとリスク解消のために
MarCoPayの具体的な内容を紹介する前に、まずはこの事業を始めた理由を聞いてみたい。藤岡氏は「解決したい2つの課題がありました」という。
1つ目の課題は「船上の現金」だ。
「船員たちは1度の航海につき、6〜10ヶ月を船で過ごします。その期間の給料の一部は現金で受け取ることが多く、海運会社は世界中の船に現金を送り届ける作業が必要でした。船長は、届けられた多額の現金を管理する業務に時間を費やし、また船員も、乗船中は各自で現金を保管・管理しなければなりませんでした」
一般的に、船員の給料は船が停泊する港近くの銀行に船舶管理会社から送金される。その後、現地の代理店などが引き出して船に届けていた。これだけでも多くのコストがかかる。
しかも停泊先は先進国ばかりではない。国によっては、治安の問題で銀行から船へと現金を運ぶ間に保険をつけることもあるという。
さらにコロナ禍では、港に停泊しても船員が外に出られない状況が続いた。その中では、受け取った現金の給料を銀行に預けに行けないなど、不便さが増してしまった。
ちなみに日本郵船の試算では、世界中の船上にある現金は800億円にも上る。これらの管理コストや紛失リスクが大きいことは想像に難くない。その課題を解決したい思いがあったという。
そして2つ目の課題は「外国人船員の経済力」に関するものだという。
「船員の輩出国で世界1位といわれるのがフィリピンです。世界150万人の船員のうち、日本関連の船に乗るフィリピン人船員だけでも22万人いるほど。しかもフィリピンでは、船員は年収1000万円を超える高所得の業種です。とはいえ、まだ発展途上の国であり、金融環境が成熟していません。高所得の船員でもローンを組む際にはその所得が評価されずに高金利になったり、審査に苦労したりという現状がありました。その状況を少しでも改善したいと思ったのです」
2つの課題を解決するために、MarCoPayは生まれた。フィリピンの企業に所属する船員が使うプラットフォームであり、運営するのはフィリピン・マニラに設立されたマルコペイ社。日本郵船とフィリピンのTDG社の出資によって設立され、今年新たに丸紅も参画した。
MarCoPayが、船員という職業をより魅力あるものにする
では、どのような機能で2つの課題を解決するのだろうか。
「まず『船上の現金』という課題に対しては、MarCoPayのアプリを通じて、船員給与を電子通貨で支払えるようにしました。加えて銀行や個人間での電子通貨の送金、またフィリピンで普及しているほかの電子通貨への交換も可能にしました」
電子通貨をはじめとした「給与のデジタル払い」は、フリーランスや個人事業主を除くと、日本でもまだ解禁されていない。「フィリピンの関係省庁や中央銀行などと議論を重ねて、認可されました」と藤岡氏は振り返る。
そして2つ目の課題、「外国人船員の経済力」に対しては、アプリからローンを契約できるようにした。
「乗船が決まった船員へのローンなどを、アプリから申し込む事が可能です。これにより、高所得の船員が高い金利でお金を借りるケースが減り、船員の人生にも好影響をもたらすでしょう。船員が豊かな生活を送れば、フィリピンの経済にもプラスです。高所得者の集まりである“船員経済圏”を活性化させるのも、このアプリの役目なのです」
船員の経済力をサポートすることは、未来の海運業の人材確保においても重要だという。というのも、フィリピンに次いで船員の多い中国は、以前に比べるとほかの職種が人気になり、船員確保が難しくなっている。経済成長でさまざまな職種の所得が上がると、長期にわたって海上で過ごす船員の仕事は、どうしても人気が落ちてしまうからだ。
フィリピンは、まさに経済成長の最中。中国と同じ現象が起きる可能性もある。いまから手を打ち、船員という職業をより魅力あるものにすることで、未来の担い手確保につなげていくのだ。
海運業の厳しい時期、若手メンバーが出したアイデアが発端
本業の「海運」とはまったく異なる事業を立ち上げた形だが、その構想が生まれたのは2017年末から2018年初頭。アイデアを出したのは、日本郵船の若手社員たち。この時期、海運業界が厳しい経営環境になる中で、有志の社内勉強会で出たアイデアが始まりだった。
それから長い年月をかけて作られたMarCoPay。アプリには、海の上で使うからこその工夫があるという。
「洋上では通信が不安定なケースも多いので、なるべく通信量がかからない構造にしました。UI/UXも限りなくシンプルにしています。もちろん給料を取り扱うので、セキュリティも厳重にしました」
ほぼ経験のないデジタルアプリの開発に加え、電子通貨に関する法令もこの数年間で飛躍的に変化。その対応も難しかったという。また、新規事業への挑戦といえば聞こえはいいが、それにより本業を毀損することは絶対に避けなければならない。難しい挑戦だったが、なぜやり遂げられたのだろうか。
「新しいチャレンジにハードルはつきものですが、デジタルや法律の面など、さまざまな企業や団体に協力していただき、実現することができました。ここまで来られたのは、最初に何を課題と捉え、どう変えたいのか、その問題意識を明確にできたからだと思います」
今後は、MarCoPayによって船員がより幸せな生活を送れるよう、サービスの拡充を目指す。フィリピン以外の国に事業を拡大する可能性もあるようだ。
藤岡氏は、取材の中で「海運業はもともと海を越えて外国に渡ったフロンティアの産業」だと口にした。海運の雄、日本郵船が仕掛けた大胆なDX。その挑戦の裏には、130年以上続く開拓者の精神があったのかもしれない。
(取材・文/有井太郎 撮影/森カズシゲ)
※記事の内容は2021年12月現在の情報です