“資源”から“資本”へ。人材の捉え方の切り替えがカギ
いま注目のワード「人的資本経営」を人材版伊藤レポートから読み解く
近年、耳にする機会が多くなった「人的資本経営」という言葉。勤めている企業でも用いられていることがあるかもしれない。
「人的資本経営」が注目されるきっかけになったのが、経済産業省が2020年9月に公表した「人材版伊藤レポート(持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書)」。このレポートのなかで「人的資本経営」の重要性がうたわれ、2022年5月には具体的な取り組みを示した「人材版伊藤レポート2.0」も公表された。
実は、2021年6月に東京証券取引所が変更したコーポレートガバナンス・コードにも「人的資本に関する記載」が盛り込まれている。この「人的資本経営」とは何を指すのか、パーソル総合研究所 上席主任研究員の佐々木聡さんに聞いた。
投資家の目線の変化がつくった「人的資本経営」の波
そもそも、経済産業省はなぜ「人的資本経営」の重要性を「人材版伊藤レポート」で訴えているのだろうか。
「SDGsの達成に向けて世界的に人材の重要性が問われていること、ESG投資が盛んになっていることが関係しています。この変化によって、世界の投資家の視点が変わってきているのです。かつては株主至上主義の色が強かったのですが、現在はステークホルダー主義に変わってきています」(佐々木さん・以下同)
これまで企業には、株主に利益を分配することが求められたが、いまでは株主に限らず従業員や顧客、取引先なども含めたステークホルダーに対する貢献が求められているのだ。
「ヨーロッパでは90年代から『人的資本経営』が意識され、従業員の教育など、人材投資に力を入れてきました。アメリカの企業でも、従業員の能力開発費はGDP比2%にのぼっています。一方、日本企業の能力開発費はGDP比0.1%。日本はOff-JTが進んでいるイメージがあるかもしれませんが、OJTの実施率も先進国の平均値を下回っていて、実際は人材投資をほとんど行っていないといえます」
なぜ、日本は「人的資本経営」に向き合わず、出遅れてしまったのだろうか。
「あらゆるものがアナログで進んでいた高度成長時代の日本企業は、終身雇用や年功序列という形で組織の結束力を増し、みんなで知恵を出し合っていいものを生み出すという方法で成功しました。しかし、デジタル化が進み、個々の知識やテクノロジーであっという間にいいものがつくれるようになってしまった。ビジネスのインフラが変わったにもかかわらず、日本企業は過去の成功体験を追いかけて日本型雇用を続けたために、出遅れてしまったのだと考えられます」
このような状況を打破し、日本企業のパワーを取り戻すため、経済産業省が持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会を立ち上げ、その報告書となる「人材版伊藤レポート」が公表されたのだ。
「日本でも投資家の目線は変わってきています。生命保険協会が行った『企業価値向上に向けた取り組みに関するアンケート(2020年度版)』で、企業に『中長期的な投資・財務戦略の重要項目』を聞くと、『設備投資』『IT投資(DX対応・デジタル化)』『株主還元』が高かったのですが、投資家に『企業の中長期的な投資・財務戦略で重視すべき項目』を聞くと、『人材投資』『IT投資』『研究開発投資』の順に高く、人材投資に関しては両者に大きな差があったのです。日本の投資家もステークホルダー主義になりつつあり、企業の経営層の考えとはギャップが生まれているといえます」
企業に求められる「3つの視点」「5つの要素」
「人材版伊藤レポート」では、人材マネジメントの目的を「人的資源の管理」から「人的資本の価値創造」に変えることが重要とされている。2つの違いはどこにあるのだろうか。
「これまで、研修費などの人材育成の費用は経費として扱われ、いかに削って利益を出すかが重視されてきました。人材を『資源』として見ていたからです。しかし、人材を『資本』と見なすと、しっかりと教育を施して優れた人材に育てる費用は、企業にとって経費ではなく投資になります。このような考え方の変換が、経営者にも投資家にも求められるのです」
注意すべきなのは、「人的資源」から「人的資本」への看板のかけ替えで終わらないこと。
「『人材版伊藤レポート』では、企業が目指す姿を1枚の図でわかりやすく提示しています。そのなかに出てくる3つの視点と5つの要素を目指すことで、本質的な『人的資本経営』に近づいていくと考えられるのです」
佐々木さんは「3つの視点が揃わなければ『人的資本経営』は成り立たない」と話すが、そのなかでも特に大切なのは視点1「経営戦略と人材戦略の連動」だという。
「経営戦略と人材戦略の連動は当たり前と思われるかもしれませんが、連動していない企業のほうが多いのです。世の中の状況に合わせて日々コロコロと変わる経営戦略に対して、人を育てる・組織文化を変えるための人材戦略はロングスパンで考えるものなので、連動が難しいという理由があるからです。しかし、なかには人材戦略に優れている企業もあります。その企業は、経営戦略が変わっても対応できる人材を育てているのです」
経営戦略が変わっても動ける人材が揃っていれば、企業も状況に左右されなくなるだろう。
そして、この視点1を実現するには、視点2「As is – To beギャップの定量把握」や視点3「企業文化への定着」が必要になる。
「例えば、経営戦略の変更にあたって、人材戦略をAからBに変えなければいけない場合、ABそれぞれに描く人材像にはどのような差があるか。このギャップの把握がAs is(現状)とTo be(理想)の視点です。さらに、経営戦略と人材戦略を連動させる文化がなければ、企業は変わっていきません。経営者が号令をかけて連動が進んだとしても、その経営者が退いた瞬間に連動しなくなるようでは意味がないのです。号令がなくても当たり前に連動する文化を醸成することが、視点3にあたります」
3つの視点を生み出すために必要なものが、5つの要素となるのだ。
「具体的な施策といえるのが、5つの要素です。要素5『時間や場所にとらわれない働き方』とは、従業員がより働きやすい職場を整えることを指します。環境を整備することで、従業員の教育にかかわる要素2・3・4がスムーズに行える職場になり、要素1『動的な人材ポートフォリオ』=経営戦略に応じた適材適所の人材配置の実効性が高くなるといえます」
組織と個人が「横並び」の関係になりつつある
3つの視点と5つの要素を、企業が個別の施策として進めている可能性は高いという。
「企業は、これまでバラバラの施策として進めていたことを3つの視点、5つの要素に整理し、実効性や有用性を再検証する必要があると考えています。そうすることで、強化するべき部分や継続したほうがいい部分が見えてくるでしょう」
3つの視点と5つの要素が表現された図には、もうひとつ、重要なメッセージが込められているそう。
「かつての日本は組織と個人が上下の関係にあり、組織は個人を雇用する代わりに終身雇用で生活を守ってあげるという構造でした。しかし、現在は組織に対して、個人を縛るのではなく対等な関係を築くことが求められ、個人もキャリア自律の意識が必要になってきています。組織と個人が横並びになっている図には、この関係の変化が表れているのです」
重要なのは「主体性を持って取り組むこと」
「人材版伊藤レポート2.0」では、3つの視点と5つの要素を実現するための取り組みの事例が盛り込まれた。しかし、レポートのなかでは「この報告書の中で挙げる全ての項目にチェックリスト的に取り組むことを求めるものではない」とされている。
「企業によって置かれた状況は異なるため、取り組みをそのまま真似してもうまくいかない可能性があるからです。また、重要なのは、主体性を持つことです。『経済産業省が言うからやる』のではなく、自分の会社に『人的資本経営』を取り入れる意味を考えたうえで、効果的な施策を考えていく必要があります。そこがうまくハマると、よりよい会社に成長していくでしょう」
日本で起こり始めた「人的資本経営」の波。投資においても、企業を見る重要な観点となるだろう。今後の日本企業の変化に注目していくと、面白い発見がありそうだ。
(取材・文/有竹亮介(verb))