ビジネスマンなら知っておきたい「人的資本経営」の取り組み ~エーザイ編~
【エーザイ】エンゲージメント向上のカギは「従業員が本音を言える風土」
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2023年9月、人的資本理論の実証化研究会が、日経225銘柄における2023年3月期を決算期とする企業(185社)を対象に、有価証券報告書における「人的資本の投資対効果」の開示に関するレーティング(格付け)を実施した。そのなかでトップのスコアを収めたのが、製薬会社のエーザイ。
2020年9月に経済産業省が取りまとめた「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書 ~人材版伊藤レポート~」でも、エンゲージメントサーベイの取り組みが紹介されたエーザイだが、それから約3年が経ち、どのような人事施策を実施しているのだろうか。
エーザイ労務政策部 企画・健康推進グループ長の大貫恵介さん、グローバルHR戦略企画部 戦略グループ長の三瓶悠希さんに、現在進めている人的資本経営の取り組みと現状について聞いた。
「新たなビジネスの展開」に向けて変化するとき
エーザイは、2021年4月に中期経営計画「EWAY Future & Beyond」を掲げ、2022年には定款を一部変更したことに伴い、人事施策も見直してきたという。
「エーザイでは定款において、企業理念であるhhc(ヒューマン・ヘルスケア)理念の主役を『患者様とそのご家族』としてきましたが、2022年6月に『患者様と生活者の皆様』に拡大しました。従来の製薬に留まらず、他産業やアカデミア、行政などと連携するhhcエコシステムモデルを構築し、『健康憂慮の解消』と『医療較差の是正』という社会善を効率的に実現することを通じて、人々の全生涯を支える企業へと変化することを目指しています」(三瓶さん)
エーザイが長年注力してきた認知症やがん領域では、治療から予防へのシフトが起きている。また、今年世界で初めて承認されたアルツハイマー病の進行を抑制する薬剤「レカネマブ」の登場も、同社のビジネスモデル転換を加速させる要因のひとつだという。
「これまでと違うビジネスを展開するには、既存の概念に縛られず、幅広い視野で新しいことを考えられる人材の育成が必要になると感じています。もっと多様化した環境でないと発想は出てこないと考え、『人権及び多様性の尊重』『自己実現を支える成長機会の充実』『働きやすい環境の整備』が非常に重要だと捉えています。さまざまな人材がいろいろな成長機会を見つけて変化でき、パフォーマンスを最大限発揮できる働きやすい会社であることを目指しています」(三瓶さん)
人的資本経営の取り組みを進めるにあたって、2022年にCHRO(最高人事責任者)に着任した真坂晃之氏が中心となり、「統合人事戦略」が策定された。
「『統合人事戦略』は、右上の黄色の部分から時計回りに進めていくものと定義しています。人事部門として、まずは従業員が健康であること、そしてより良い働き方ができることを追求していくことで、従業員自身が自身のビジョンを描き始めるので、自己成長の機会を提供していく。その結果、事業や組織の成長につながるという考えで、私たちも施策を実施しています。たとえ事業の成長は軽微であっても、ほかの3つが整っていれば、中長期的な成長は見込め、社会からの信頼も厚くなると信じています」(三瓶さん)
「エンゲージメントサーベイ」から見えてきた組織で異なる課題
まずは現状の把握が最優先だと考えて実施したのが、「人材版伊藤レポート」でも紹介されたエンゲージメントサーベイ(社員意識調査)。
●エーザイが行っている2つのエンゲージメントサーベイ
・パルス・サーベイ:日本国内の従業員を対象に、毎月16個の質問に回答してもらう調査。組織力向上プラットフォーム「Wevox(ウィボックス)」を活用。
・グローバル・エンゲージメント・サーベイ:世界の全従業員を対象に、年1回実施している調査。
パルス・サーベイでは「職務」「自己成長」「健康」「支援」「人間関係」「承認」「理念戦略」「組織風土」「環境」といったテーマに関する質問に従業員に回答してもらうことで、個人や組織(部署)のエンゲージメントを測定。一方、グローバル・エンゲージメント・サーベイでは、パルス・サーベイよりも細かな質問を投げかけ、従業員に答えてもらう。
「パルス・サーベイは3~5分ほどで回答できる量ということもあり、回答率は常に80~85%程度で推移しています。グローバル・エンゲージメント・サーベイは回答に30~40分ほどかかってしまうので、国内の従業員だけでも回答率は76%ほどに下がってしまいますが、過去2回実施して少しずつ回答率が上がってきています」(三瓶さん)
2つのエンゲージメントサーベイの結果から見えてきたのは、組織によって課題が異なるということ。
「組織によってスコアも違いますし、スコアを分析すると課題や解決策も変わってくるということがわかってきました。スコアはあくまで課題解決の入り口として参考にするイメージで、そこからエンゲージメントが下がっている理由を探るようにしています。例えば、ある組織で『上司との関係』のスコアが下がったとしても、あくまでもエンゲージメントスコアは『両者の関係性』を見るものですので、すぐに『上司の対応方法を変えよう』『上司が悪い』と決めることは絶対にしません。むしろ、スコアが下がっているときこそ伸びしろが大きいと考え、その背景にある理由を探します」(三瓶さん)
「パルス・サーベイのスコアを組織長も見られるようにすることで、組織やメンバーのコンディションを把握できるようになったのは、エンゲージメントサーベイのいいところのひとつです。自身のマネジメントの影響を客観的に見ることで、マネジメントスタイルを改善していこうというモチベーションにつながりますし、変化も実感しやすくなると感じています」(大貫さん)
ただ、エンゲージメントサーベイのスコアを施策に落とし込んでいく動きが出てきたのは、つい最近とのこと。
「エンゲージメントサーベイを実施してきたのですが、運用母体の人事組織が忙しく、次のアクションに移行できていなかったんです。2022年6月に真坂が着任してからデータドリブン人事(DDHR)の取り組みが始まり、データの分析に動き出しました。2023年6月には、私が属するグローバルHR戦略企画部が立ち上げられ、エンゲージメントサーベイの運用・分析の専門組織として動き出したところです」(三瓶さん)
スコアの分析を進めていくと、“働きやすさ”を定量化することの難しさも感じ始めているという。
「定量化を進めるなかで、仮に上司が部下に『いいスコアを付けなさい』と言ってしまったら、それまでなんですよね。そうならないように、社内に対して『ありのまま思ったことを入力してほしい』と伝えるようにしています」(三瓶さん)
「出てきたスコアが本物であると信じるためには、定量化を進める以前に、思っていることを素直に言える風土をつくることが大事だという課題意識も出てきました」(大貫さん)
従業員の素直な気持ちを引き出す「Project Aka-Chochin」
「思っていることを素直に言える風土」をつくるため、組織長に推奨しているのは、組織内でのパルス・サーベイのスコアの共有。
「その組織ではスコアがどのように変化しているか、メンバーに伝えることをお願いしていて、マネジメントガイドラインにも記載しています。また、スコアを共有するだけでなく、そのスコアを材料に組織内で話し合って課題を見つけ、アクションプランをつくるところまで推奨しています。2~3カ月に一度、組織内での対話やプラン作成の実施についてアンケートを取っているのですが、実施している組織はエンゲージメントが高いというデータが出てきています」(三瓶さん)
組織内でのスコアの共有や対話は始めたばかりの段階にあり、スコアの共有を実施している組織は全体の65%程度、対話が55%程度、アクションプランの作成が50%程度とのこと。
「本来の業務で忙しいので、なかなか時間が取れないという現状もわかります。ただ、実践することでエンゲージメントが上がるとわかってきているので、『スコアの共有や対話が組織にいい影響を与える』としっかりPRしていくことが、私たち人事部門の課題だと感じています」(三瓶さん)
さらに、従業員の素直な意見を引き出すため、2023年度から従業員同士や役員、人事部門がコミュニケーションを取れる場を設けている。この取り組みの名は「Project Aka-Chochin」。
「『人材版伊藤レポート』に『CHRO及びCEOは積極的にメンバーと対話するべき』といった内容が書かれています。その実現方法を考えた際に、悩みを持っている従業員が集まる場をつくったらいいのではないかという発想に至ったのです。組織長やキャリア入社といった同一の括りで集まって話すことで、参加者は『エーザイはこういうところがいいよね』『こういうところは改善したい』と打ち明けやすくなりますし、私たちは従業員の考えを知れるので、貴重な機会になっています」(三瓶さん)
「Project Aka-Chochin」は社内の食堂を会場に、既に4回実施(取材当時)され、それぞれの回で組織長、キャリア入社社員、女性若手社員、シニア社員が集まった。参加者からは「仕事を離れてカジュアルに思いを共有できる場があるだけで、心がラクになった」「『ネガティブな部分の改善法をみんなで考えよう』というオープンな空気をつくってくれたので、話しやすい」「コロナ禍で社内のつながりが希薄になっていたから、横のつながりができてうれしい」という声が届いている。また、取材後には、東京の営業メンバーが集う新宿オフィスで初の出張Aka-Chochinが実施され、活発な議論が展開されたとのこと。
「これまでの人事部門は人材を採用した後、その後のコミュニケーション機会が少なく、基本的には組織長にお任せするマネジメントになっていたと思います。今後は従業員とのコミュニケーションの場をたくさんつくり、ネガティブなところもお互いにさらけ出して、組織や人事における次の戦略に活かしていくというサイクルを回していきたいです。結果として一人ひとりが組織を構成していることを実感し、組織成果の最大化にコミットしていくことにもつながると考えます」(大貫さん)
「過去4回で累計75人が集まり、正直な気持ちを聞かせてくれたことで、問題や課題が見えてきています。例えば、キャリア入社の方から『社内の人にメールで“様”を付けるのは変ではないか』という意見をいただきました。エーザイの文化に慣れていると違和感を抱かない部分ですが、キャリア入社の方にとっての壁になっているとしたら、『“様”をやめようキャンペーン』を打ってみるのもありかなと感じています。新しい取り組みを実践し、その結果を蓄積することで、より働きやすい風土ができていくのだろうと思います」(三瓶さん)
あえてネガティブをさらけ出した「Human Capital Report」
さまざまな取り組みを進めているエーザイは、2023年7月に人的資本経営の取り組みだけをまとめた「Human Capital Report 2023」を発行。この作成にあたって、ネガティブなデータもさらけ出すことを意識したそう。
「私たちが進めている人事施策の良し悪しは、他社の状況がわからないと判断ができません。それならば先に自分たちの状況を正直にさらけ出すことで、他社も続いて開示してくれるのではないかと考えました。そして、他社の施策と比べて、良いところは継続し、改善すべきところは変えていこうと考えました。ネガティブな数字を出すことには勇気がいりましたが、いざ公表してみると、そこも含めて評価していただけています」(三瓶さん)
ネガティブな数字の例でいうと、「人材開発・研修総費用」が挙げられる。2020年度から2022年度にかけて下がっているのだ。「エーザイは人材開発にお金をかけていない」と批判されかねない。
「このデータは研修のための交通費なども含んでいるので、コロナ禍になって費用が軽減したという背景があります。ただ、社内のシステム上の限界で、どうしても交通費を省いたデータは取れません。また、下がっているのは事実なので、そのまま出そうと判断しました。データを公にしたことで、人事部門の研修担当者は『もっと従業員に対して働きかけよう』と気合を入れ直したので、いい効果もあったのかなと感じています」(三瓶さん)
対外的に発行したレポートだが、従業員に人的資本経営の取り組みを知ってもらうための資料にもしたいと考えている。
「従業員に読んでもらうことも前提としているので、ネガティブな数字を隠したりウソをついたりできないという面もあります。社内のイントラネットでこのレポートを紹介したところ、『恥ずかしいデータを出すな』『もっと見やすいデザインがいい』という厳しい声が聞こえてきましたが、何より大切なのは従業員の関心が高まることだと思っています。そういう意味では成功ですし、一歩進めたのかなと感じています」(三瓶さん)
「『Human Capital Report』をはじめ、人事の施策には会社の想いや意思が散りばめられています。従業員や労働組合とのコミュニケーションのなかで『このレポート知ってる?』と聞くと、まだまだ知らない方もたくさんいます。私たちの発信が足りず、人事部門の全員が同じ文脈で説明できる状態になっていないという課題にも気付きました。人事部門も知識やスキルを高め、従業員との実りある対話に向けての研鑽をしていきたいと思っています」(大貫さん)
成功した事例を報告するのではなく、あえてネガティブなデータを公表し、改善していく様子を見せようとしているエーザイ。その潔さが従業員のモチベーションやエンゲージメントを高め、外部の注目を集めているのだろう。今後の取り組みにも期待だ。
(取材・文/有竹亮介(verb) 撮影/森カズシゲ)