【第2回】律令制の崩壊と市場経済のはじまり(前編)
この記事は、当サイト2020/6/13(土)配信「市場(いちば)と市場(しじょう)は違うもの?(前編)(後編)」に続く連載シリーズ「歴史的な視点で経済、市場を学ぼう」の第2回です。
1. 律令制の崩壊と市場経済の黎明期
律令制体制化で特権的な地位にあった貴族や大規模な寺社の力が強まっていくなかで、743年には墾田永年私財法1が施行され、律令政府による中央からの統制が崩れて律令制が有名無実化していきます。経済的には、各地方の有力者と各地荘園を通じて結びついた大貴族や大寺社が自力で資源を調達する事が必要になると同時に、各自の荘園の規模を拡大して収穫物の確保をするだけでなく、各自で市場を通じて物資を調達するなど、今でいう「分権化」が進行しました。
1 自ら開墾した土地はその開墾者の永久私有とすることを認めたもの。
寺社や朝廷と結びついた、神人(じんにん)、寄人(よりゅうど)、供御人(くごにん)といった職能民がいました。これらの手工業者は、お米のように多くの人々が食用として欲しがるだけでなく交換手段にも用いられる汎用性のある物品ではなく、例えば刀であったり瓦であったり、用途が限定された物品を生産していました。
律令体制が崩壊していくに連れて、朝廷による所得の保障がなくなります。こうした手工業者は、寺社の私的な商業ビジネスのなかで糧を確保するようになります。やがて、寺社およびその直属の職能民は、宗教的権威を背景に各地で市場を開催し、そのマーケットでビジネスを展開しました。それらマーケットの一つが、仏教の斎日毎に市を開く六斎市です。
中央による資源配分機能が喪失したあとは、各地で資源を自給自足しなければならないのですが、単独の地域だけでは必要な資源を調達できません。例えば、塩が典型的な資源で、沿岸部で生産された塩が内陸部にもたらされる仕組みは必要です。次に、その仕組みについて、塩座、油座等を交えてお話しします。
2. 座(ざ)
寺社の商業ビジネスに参加する意思表示として、職能民は生産物ごとに生産・販売メンバーとして名乗り出ます。塩なら塩、荏胡麻(えごま)油なら荏胡麻油ごとに、生産・販売メンバーのリストができることになります。メンバーは寺社に収益の一部を貢納し、その見返りとして寺社は自らの権威が通用する地域全体に関して生産・販売に関する権限を認めます。このメンバー集団を座と呼びます。座の特権は、いわばその地域での生産・販売の独占的地位を保障するものなので、一定のルール(座中法度)が作成され、ルール厳守とされました。ルール違反のメンバーには追放のペナルティが加えられました。
商人は座に所属しないと、自由に移動できず、市にもはいれませんでした。座に属していない商工業者は、自らの営業エリアに座のメンバーが活動した際に、抵抗もしますが、寺社の権威・脅威に屈服せざるを得ません。座として加わるか、もしくは立ち退きを迫られました。あるいは、対立し合う寺院がそれぞれ座を持っている場合、互いのメンバーどうしで数多くのトラブルが生じました。
座の外側では、そのようなトラブルを解決する枠組みが消失していますから、結局は、宗教的権威や暴力を行使して現場で解決する仕組みになっていました。このことが、この時代の市場がより大きく拡大する障害となっていました。
一方で、移動の自由をもっている商人が、座を通じて、各地に分権化した市場をつなげる事で、いわば、各市場を超えた全体的な資源配分が行われる仕組みも発達していきます。各地域は自給自足だけではなく、特産品等を産出し、それが、商人ネットワークを通じて各地に配分されるという市場システムの原形が平安後期、鎌倉時代、室町時代を通じて形成されていきました。なかには、このような商人たちによって、特産品と地域のブランディングが行われたような事例も見られます。
このあと、塩と油の流通と座の事例についてご紹介します。
3. 塩の荘園と塩座
13世紀、京都の東寺に寄進された伊予の国(今の愛媛県)弓削島荘(ゆげしまのしょう)2という荘園がありました。ここは大麦や米は大量に生産されませんが、京都に多くの塩を貢納していました。これらの塩は問丸(室町時代は船頭)と呼ばれる、今でいう商社のような輸送や販売を一手に引き受ける組織によって瀬戸内海から大坂湾を経て、淀川を遡って京都に1カ月をかけて陸揚げされていました。
2 現在の愛媛県の北東部、瀬戸内海の島、弓削島の辺り
そうして京都に着いた塩を京都の塩商人が買い付けます。塩商人は問丸から塩1俵につき200文で買い付け、3日後に、平城京内の市で400文で売ったという記録が残っています。このような塩商人は、塩座といわれる座に所属していました。
室町期には、弓削島荘の塩は「備後」という総称で京都に出荷されていましたが、弓削島荘だけではなく、周辺一帯の塩をも含めて「備後」として売り出していました3。このようなブランド化を軸として地域一帯の生産者の連帯意識を作り上げること、こうしたことも商人達の手で行われていたと考えられています。
3 愛媛県史編さん委員会1984年
さらに、これらの塩が京都から各地に行き渡るときに、様々な本所(荘園領主、座に権限を与えている者)をもつ、多くの塩座が関係していたことがわかっています。
例えば、「備後」が京都から大和(今の奈良県辺り)に運ばれるルート(淀川の支流木津川をつかって、京都から大和に搬送)
(1)京都 ⇔ 木津 西園寺家を本所とする塩座が担当
(2)木津 ⇔ 大和 興福寺一条院を本所とする塩座が担当
奈良と京都の間の地理に詳しい方ならわかると思いますが、地勢的には奈良・京都間は山が多く、大量輸送の為には木津川を利用できる事が重要でした。奈良では興福寺が、このような交通の要衝を抑えて商業ネットワークを支配したため、商人達は彼らを本所とした座に加入して、このような商業ネットワークを利用しました。興福寺には多くの座が所属し、商人達は興福寺から神人、供御人等の身分を与えられていたのです。(後編に続く)
※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。
(東証マネ部!編集部)
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