歴史的な視点で経済や市場を学ぶ

【第4回】市場で争う戦国武将達 ~信長の市場振興~(後編)

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3. 信長の楽市・楽座

楽市・楽座の“楽”は、自由にするというような意味です。つまり、市や座を自由にするということです。それは、市への参加の自由と、市での売り手独占による価格統制からの自由です。それまでは、市の場所は多くは寺社の管理下にあり、市への参加資格も寺社が独占していました。今で言うなら、市場プラットフォームを提供する人と売り手が同じ人達ということです。このようなシステムから、楽市・楽座の登場により、大名が提供する市場プラットフォームの下で、参加者自由で商売をしてくださいとなったのです。

楽市という言葉の資料上の初見は、近江の国(現在の滋賀県)の戦国大名、六角氏の制定した市場法からですが、実際に人々の前に掲げられた木製の制札が現存している最古ケースが、1567(永禄10)年に織田信長が岐阜の加納に発したものです。

歴史の勉強の際に、楽市・楽座は信長のオリジナル施策だと覚えている方がいるかもしれませんが、この加納での楽市令は、斎藤義龍との戦闘の末に勝ち取った稲葉山城下を岐阜と改名した直後に発せられたもので、楽市場の皆さんと呼び掛けているところから、もともと加納は楽市とされていたことが伺えます。つまり、斎藤氏はすでに楽市・楽座をおこなっていたのです。

しかし、斎藤義龍ではなく、信長だからこそのオリジナルの部分もあります。それは、上記加納令の二箇条目、三箇条目で、わざわざこのような宣言をしたのは、信長だからできる安全宣言だったのです。信長は強くて規律ある軍事力を持っており、市場に十分な警察力を提供することが可能でした。いや、もっと踏み込んで言えば、戦乱の後であれば、勝利した側の兵こそが一般の人々には脅威でした。やりたい放題のことをしでかしそうな一番の候補たちのことを、信長は、違反したら自分が只じゃ済まさないと念押しをするのです。信長は家来たちを睨みつけるかたちで人々を安心させたのです。そうして、このように書かれた制札を掲げて、人々がこれを特に取り壊すことなく掲げられたことで、制札の内容は信長と領民との間に交わされた契約のはたらきをもつようになります。

3 勝俣 1979

弱肉強食でやりたい放題の市場ではなく、商人が安心して商いをできる環境を提供することが重要だと戦国大名たちは捉えており、例えば信長はそれを強く意識していたということがわかります。

信長はその後も幾つか楽市令を出すのですが、1577(天正5)年の安土楽市令では、楽市に居住する商人の自治組織に権限を委譲する条項があります。楽市令は、もはや戦国大名の経済政策ではなく、都市の秩序維持の為のルールとなったのです。

4. 城下町と撰銭(えりぜに)令

楽市・楽座は、座の本所である有力寺社には打撃となりましたが、座で活躍する大商人には新しいビジネスチャンスでもありました。越後上杉家は織物の原料である青苧(あおそ)に注目し、その青苧座と提携します。青苧座は戦国以前には藤原摂関家を本所としていましたが、上杉家に従いました。このようにして、戦国大名は座を支配下に置いていきます。

戦国大名のなかにはこれらの座の商人達を招いて城下を活動拠点にさせ、城下町というビジネスの拠点を形成するものも現れました。

戦国期には、金山開発や銀山開発など独自の貨幣制度を模索する戦国大名も現れましたが、基本的には貨幣としていたのは中国産の銅銭です。15世紀(室町幕府後期)には、中国での銅貨の輸出制限等の影響で、一時、中国からの銅貨の流入が減少しますが16世紀(戦国時代)には再び大量に流入します。様々な時代の中国銅貨が流通し、摩耗したもの、偽造されたもの等も多く、室町幕府もたびたび流通可能な銅貨を設定しています。これを撰銭令(えりぜにれい)といいますが、戦国期には、各大名が撰銭令を出します。小さな領国を挟んで個別の撰銭令がでると商業に支障が大きく、近隣の大名の連携が必要となり、大名同士の同盟関係に影響を与えていました。ですので、武田氏、後北条氏および結城氏は歩調をあわせて撰銭令を発令しました。

信長の1569(永楽12)年の撰銭令は従来の撰銭令とは異なる画期的なものでした。従来の撰銭令で公認された銅貨は異なる銅貨であってもあくまでも一文一文の等価で交換される原則でしたが、現実には、ある銅貨は畜銭や高額取引の決済にだけ使われ、ある銅貨は日常の少額取引に使われるなど、銅貨の種類によって等価ではありませんでした。信長はこれを追認し、流通銅貨間の交換レートを定めています。従来の撰銭令は民間で嫌われている銅貨を権力で無理やり流通させてしまうというものでしたが、信長は、そんなことをしても法令が守られていない実態から、現実の銅銭流通に即して法令を制定したと考えられます。

4『交換・権力・文化』桜井英治 みすす書房 2017年

信長が軍団の旗印の一つとして永楽通宝を意匠として用いていましたが、永楽通宝は信長が撰銭令で、銅貨1枚で1文として通用するとした銅貨でもあったのです。

5. 安心と市場

戦国期といえば、やはり人々の心は現代日本の我々からすれば暴力的に思える解決手段が取られることが日常茶飯事でした。その一方で、各地の戦国大名は市場参加者の安心感に心を砕き、それによって産業振興をして、市場拡大のための経済的な施策を怠らなかったといえます。その結果、室町幕府崩壊期には失われていた、安心して市場で取引ができるという状態が徐々に回復していきました。

以前は、織田信長といえば先例にとらわれない秩序の破壊者というような捉え方だけされてきましたが、近年では、秩序を重んじ人々に安全と安心を与える施策を心掛けていた点が研究されているようです。

市場の発達という点で、各地の戦国大名が経済的な競争にさらされたときに、商人が自由に安心して商売ができるようにすることを競わせたというのは、大事な視点です。

また、楽市・楽座は単純な規制緩和ではなく、むしろ、市場に安心感を与えるために、各戦国大名が市場に強い権力の関与を働かせ、自由な商業体制を守ったものと捉えることができるかと思います。(次回に続く)

※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。

(東証マネ部!編集部)

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