【第6回】日本の証券市場のルーツは江戸時代にあり(前編)
この記事は、連載シリーズ「歴史的な視点で経済、市場を学ぼう」の第6回で、2020/10/16(金)配信「【第5回】江戸時代の決済システム(前編)(後編)」の続きです。
1. 石高制(こくだかせい)
今回は18世紀、第8代将軍徳川吉宗が公認することで公設の取引所となった堂島米会所を中心とした経済システムのお話をしますが、その前に、豊臣秀吉の行った太閤検地がもたらした石高制について少し触れておきます。
各地の戦国大名が行う重要な政策課題として、どのような形で納税させるのか、というものがありました。貨幣で納入を求める戦国大名もいれば、米で納入を求める戦国大名もいたのですが、秀吉が全国規模の政権を打ち立てたことで、全国統一的に、米での納税が行われるようになりました。
ここで重要なのは、太閤検地を全国一律的に実施することで、軍役や徴税の基準となる各領国の生産力を一つの基準で測れるようになったということです。これが石高制といわれるもので、一石=一人の兵士を1年養える米の量=米俵約3俵(1俵は60Kg)を基準にして、個々の農家は何石収入があって、全国の大名の領国は何石の生産高があるかを量ったのです。
みなさんも耳にしたことがあるであろう”加賀百万石”は、100万人の兵士を養える米の量であったということになります。この石高制は、徳川政権(江戸時代)にも引き継がれます。1
1 米が収穫できない農村では石代納という貨幣での納税が認められている場合もあります。
2. 大坂堂島米会所
石高制により納税は基本的にお米になったため、江戸時代の大名家や大名の家臣である武士たちの所得収入はお米を基準として与えられることになりました。
ですが、大名やその家臣の侍がお米をそのまま、城下のお店に持って行って、必要な物資と交換していたわけではありません。給与として与えられるお米が証券として渡され、この証券をもとに貨幣収入を得る仕組みが整ったのです。ここで、大量の人数の給与を逐一換金するとなると、地元の商人では全てを対応することができません。実のところ、お米の大消費地を抱える大坂の大商人に各地から米が廻送されていました。大坂は、貨幣制度が整備された重要な商業都市でしたから、換金に関する便宜を図るのに好都合な場所でした。
各藩の地元から大坂に廻送された米は各藩の蔵屋敷に収納され、各藩の蔵屋敷を通じて売却されるのですが、まずは特定の商人による入札が行われ、それに伴って蔵屋敷にある米の預かり證書である米切手が発行され、その米切手が堂島米会所で売買されるという仕組みによって成り立っていました。
ただし、堂島米会所で全ての米切手が売買されたわけではなく、売買されるのは概ね三十数銘柄程度で、それ以外は市場外で相対(あいたい)取引されていました。
3. 米切手の発行
なぜ、徳川時代の米市場の話を私達日本取引所グループが話をするのかと言いますと、この大坂堂島米会所での取引手法が、そのまま明治の株式取引の手法に繋がっているということと、大坂堂島米会所が先物取引市場だったのですが、それが大阪取引所での先物取引の手法に繫がっているからなのです。
日本取引所グループの「証券市場誕生」(集英社)という本では、江戸幕府公認の堂島米会所の成立を、日本で最初の証券市場の誕生として描いています(少し挑戦的ではあったのですが)。それは、堂島米会所で実際に取引されたのはお米そのものではなくて、米切手と呼ばれる証券の発行を通じて、各大名家が富商達から資金調達を行っていたと考えられているからです。
米切手の発行は以下の通り行われました。各藩はこの米切手の発行によって、お米を銀貨に換金していたわけです。これは、現代の国債発行のプロセスと非常によく似ています。
(1)各藩が自分の蔵屋敷の米の販売をするための入札を行う旨の公示を行います。この公示は、大坂渡辺橋北詰ならびに各蔵屋敷の門前にかかげられました。
(2)入札に参加できる大坂の米商人(仲買人)は資格制です。資格を有する大商人達は入札の公示を見て、各蔵屋敷に入札に集まります。
(3)そこで、商人達は自分が欲しい米の数量と価格を入札用紙に書いて、箱のなかに投じます。現代のわれわれが入札で思い描く姿と同じです。
(4)より高い値段を入れた商人から落札していきます。落札すると、信用の高い商人以外は代金の一部を支払って後、10日以内に落札金額全額を支払います。
(5)お金が支払われますと、各藩蔵屋敷からその旨を非常に判読しにくい文字で記載して藩の判子が押された、25cm×15cmくらいの短冊状の書類を渡されます。この書類を米切手といいます。この米切手を蔵屋敷に提示すれば、蔵からお米を引き取ることができます。米切手一枚は10石になっていました。300石落札すれば、30枚の米切手を受け取りました。
米切手を入札で手にした商人達は、すぐには米切手でお米を受け取りませんでした。例えば、お米を欲しがる人が後に増えた際に堂島米会所で売れば、入札価格より高く売れて儲かるからです。そのような米の需給や価格変動に関する思惑から価格変動リスクを回避しようとする商人や、その価格変動に乗じようとする米のブローカー(仲買人)達が集まったのが大坂堂島米会所だったのです。
米切手を発行する各藩も、商人達が落札した米をすぐに引き取りに来ないことを知っていました。そのうち、米があるから入札して米切手を発行するのではなく、蔵に入荷する予定の米や将来蔵に入荷するであろう米を対象に、個々の藩がお金の必要に応じて米切手を発行するようになります。つまり、お米が本当に蔵にある必要は無いため、発行されている米切手は、江戸期を通じて、実際に蔵にあるお米の量よりもかなり多かったのです。
とはいえ、あくまでも米切手は米の預かり證書です。米切手を提示されると、蔵屋敷は米を渡さなければいけませんが、時価で米切手を買い戻すことも可能でした。それでも、実際、米切手を提示されて買い戻しも適わず、事実上破綻する藩もありました。(後編に続く)
※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。
(東証マネ部!編集部)
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