歴史的な視点で経済や市場を学ぶ

【第9回】明治初期の貨幣・財政政策(前編)

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この記事は、連載シリーズ「歴史的な視点で経済、市場を学ぼう」の第9回で、2021/1/9(土)配信「【第8回】横濱開港のインパクト(前編)(後編)」の続きです。

今回は明治期の株式市場の誕生につながる重要な経緯として、明治初期の貨幣政策から話をしていきたいと思います。

1.「円」の登場と国立銀行条例の制定

明治初年の大蔵省は、新政府内部の開明派の牙城であり、1869(明治2)年に大蔵大輔に就任した大隈重信を筆頭に、大蔵少輔に伊藤博文、大蔵大丞に井上馨、さらに渋沢栄一、福地源一郎、芳川顕正らが集い、大蔵省主導で各種の改革を同時並行的に進めていました。

1「信用貨幣の生成と展開」鎮目雅人編 第6章 日本における近代信用貨幣への移行より。以降、本編は本論文を主に参照している。

1871(明治4)年頃までは、新政府発行の太政官札(日本最初の全国で流通する紙幣)、旧幕府以来の両(りょう)建て金貨・銀貨、文(もん)建て銭貨、各藩が発行した藩札等が地域ごとに異なる形で流通していましたが、廃藩置県と合わせて貨幣単位の全国統一を図るために、同年5月に新貨条例を公布して、新貨幣単位としての「円」を導入しました。1円を純金1.5グラムと等価と定め、これを1円正貨として金貨を鋳造し、翌年には1円紙幣を発行しています。

政府はこのように金本位制の導入を宣言したのですが、既に流通している各紙幣との兌換(正貨である1円金貨との交換)の為の十分な正貨を準備することができず、各紙幣は実際には正貨と交換ができない不換紙幣でした。そのため政府は、米国のナショナル・バンク(国法銀行)をモデルにした民間出資の発券銀行を創り、その発券銀行の発行する兌換紙幣によって、大量の政府紙幣を回収整理しつつ殖産興業を同時に推進しようと企画します。

この為の法律が、1872(明治5)年の国立銀行条例です。この条例の制定は渋沢栄一が主導しました。この条例には株主の有限責任が明記され、この条例で創られる国立銀行は、米国の国法銀行制度に倣った、日本初の本格的な株式会社組織となりました。

国会図書館デジタルアーカイブ「横浜市史稿」(産業編)より
前列右から4番目 伊藤博文、5番目 福地源一郎

2. 第一国立銀行の設立

1871(明治4)年に福地源一郎が出版した「会社弁」では銀行設立の方法等が紹介され、以降、江戸期からの両替商等の富商を中心に銀行設立の機運が高まります。

三井組、小野組双方から銀行設立の請願を受けていた政府は、1872(明治5)年に三井組、小野組による三井小野組合銀行を設立させました。そして、これを母体として国立銀行条例を基に、1873(明治6)年に三井組、小野組双方が100万円づつ出資し、あと100万円を公募したところ44万円の公募出資を得て、資本金244万円で第一国立銀行が設立されました。

1873(明治6)年に大蔵省を退官していた渋沢栄一は、三井組、小野組の両出資者の上に総監役という立場で経営に参画しています。この総監役という地位は、国立銀行条例の規定にはないものでした。以降、渋沢は民間の立場からこの国立銀行制度の発展に尽力することになりますが、当初の国立銀行条例では厳格な兌換準備制度があった為、この第一国立銀行の他に大坂、横濱、新潟に合わせて4行の国立銀行の開業にとどまります。

さらに、第一国立銀行の経営も危うくなります。1874(明治7)年に小野組が破綻し、当時、小野組番頭だった古河市兵衛の協力等でその危機を乗り切りました。ただし、危機後に渋沢からの依頼を受けて検査を行なったアラン・シャンドによると、融資が十分に行われていないことが浮き彫りとなります。国立銀行制度の当初の目的である政府紙幣の回収整理、殖産興業の推進の双方で行き詰まりが見えていました。

ここで余談を幾つか。国立銀行という名称は現代でも誤解を招く名称だと思います。これは鎮目先生の論文にあるとおり、国法銀行と訳すべきだったものを、伊藤博文と渋沢栄一がナショナル・バンクを国立銀行と直訳したからではないかと言われています。銀行という言葉にも渋沢が関わり、「行」は中国では会社組織を意味し、Bankは金の会社だから金行となるが、語呂がわるいし日本は銀使いも多いので銀行が良いとしたという説があります。(後編に続く)

※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。

(東証マネ部!編集部)

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