歴史的な視点で経済や市場を学ぶ

【第9回】明治初期の貨幣・財政政策(後編)

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3. 国立銀行条例の改正

1871年(明治4)年の廃藩置県にともなって、旧武士の秩禄(ちつろく、代々主家から受け取っていた俸禄)の支払いを明治政府が負担することになっていましたが、その財政負担は大きく、政府は段階的に支給水準を引き下げていきました。1874(明治7)年には秩禄公債、1876(明治9)年には金禄公債を士族に交付した上で、秩禄の支給を完全に廃止します。

政府は経済的苦境にたつ士族への融和策として、国立銀行への出資を認め、これを士族授産事業の柱と位置づけようと考えました。先述の通り、厳格な兌換準備制度には限界が見えていたこともあり、1876(明治9)年に国立銀行条例を改正し、兌換準備制限を解除し、国立銀行への秩禄・金禄両公債での現物出資を認めることとなりました。殖産興業の推進についても、両公債を資本として取り入れた国立銀行が各地に設立されて紙幣を貸し付けることで、地域産業の発展につなげようと考えていたのです。

本条例改正により、公債を見合いに発券を行う銀行が全国に153行設立されることになり、前回述べた荷為替金融を支える重要な基盤を提供することになっていきます。

4. 公債の売買市場

全ての士族がこのような公債による銀行設立という動きに従ったわけではありませんでした。多くの士族は、その日の暮らしのための現金を必要としていたために、公債を売却して現金化していたのです。

政府に許可されていない公債売買市場が設けられ、特に、横濱金穀取引所の閉鎖後、東京に拠点を移していた今村清之助等横浜組が中心となった公債市場が西南戦争の中、急速に拡大します。なかには、米取引の際に行われていた延売買(先物取引)のような、単なる公債の現金化だけではない投機的な目的の取引も行われました。

今村は買い取った公債を銀行に持ち込んで買い取ってもらうのですが、その買い取り価格より安く士族から買えばその利ザヤが儲かったのです。銀行は、現物出資されるよりも安く今村達から公債を買い取るのですから、結局、士族は適正な価格より安く手放していたはずです。しかし、多くの士族には公債の適正価格等わかるはずもなく、むしろ、現金化してくれる今村達に感謝していたと考えられています。

2 公債価格の7割で買い取ったとされている。発券銀行は、この公債を元々の価格で準備金として兌換紙幣を発行できるので、銀行にとって非常に有利な話だった。

しかしながら、西南戦争最中の明治政府にしてみれば、こうした公債の売買市場を放置することは危険だと考えたのは想像に難くありません。政府は公債の公設市場をつくり価格の公表を急がなければいけないと考えたのです。

5. 日本銀行の設立

既出の鎮目の分析結果によれば、国立銀行は士族授産事業の一環であったとしても、現実の国立銀行の経営には、商品流通および金融活動に従事していた商人や地主の貢献が大きかったようです。士族の銀行経営は総じて上手くいかなかったのです。このことから、政府のなかで、国立銀行制度を通じて地域振興を進める一方で財政整理を進めるという2つの目的を同時に達成することは、誰の目にも難しくなったのです。

国立銀行制度をスタートさせる前にも、欧州型の中央銀行制度を導入すべきだという議論があったこともあり、1882(明治15)年に中央銀行制度における中央銀行として、日本銀行が設立されます。

ときの大蔵卿である松方正義が太政大臣三条実美に提出した「日本銀行設立趣旨の説明」では、

『金融の民間に於ける猶ほ血液の人身を循環し四肢の強作を佐くるが如し・・・中央銀行なる者は一國金融の心臓なり若し此心臓あるに非ずんば誰が能く全国の財貨を流通し能く聚め能く散し操縦離合各々其宜を得せしむるを得んや』

と民間銀行を血液、日本銀行を心臓に例え、

『中央銀行を設立し現今各地方に於て堅確なる國立銀行を以って支店と同視し之と「コレスポンダンス」を結約せしめば財貨流通の線路始めて全國に貫通する・・・』

と述べています。

当時の日本銀行が今の日本銀行の様に機能していくには、さらに、1890(明治23)年の恐慌等を経て、日本銀行が金融市場への関与を強める等の紆余曲折がありましたが、こうした一連の経緯を経て民間銀行と中央銀行からなる二重構造の銀行制度が形作られていったのでした。(次回に続く)

※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。

(東証マネ部!編集部)

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