とある市場の天然ゴム先物 21
【国内1号】神戸のゴム先物取引所はどれくらいの取引があったのか?
第3回の記事で、国内最初の天然ゴム先物の取引所は東京ではなく神戸に設立されたとお話しました。今回は神戸ゴム取引所の年史を紐解きながら、その歴史や取引状況について見てみましょう。
神戸に最初の取引所が設立された背景
戦後、生ゴムの輸入は外貨割り当ての自動承認制の下で自由化されましたが、1950年6月の朝鮮戦争の勃発を契機として天然ゴム価格が乱高下し、多くの国内業者が損失を受けたことで「天然ゴム価格変動リスクのヘッジ」の必要性が高まりました。
そこでヘッジ手段を必要としていた神戸のゴム取扱会社が中心となり、1951年12月に神戸に国内で初めてゴム取引所が設立され、1952年1月16日より天然ゴム先物の取引が開始されることになりました(初日の取引高は723枚)。
神戸で国内最初の天然ゴム先物取引所が設立された背景としては、当時神戸が横浜とともに生ゴムの輸入陸揚げ港で、輸入商社はすべて神戸に本支店があり、そのため神戸でタイヤメーカーやその他ゴム工場向けの実物取引や地方向けの配送荷捌きをしていたことが挙げられます。
なお神戸で取引開始後、東京でも取引所設立の機運が高まり、神戸から遅れること1年、1952年12月に東京ゴム取引所において取引が始まることとなります。
わが国ゴム工業勃興の地の碑
神戸ゴム取引所
神戸ゴム取引所の取引状況
東京より早く取引を開始した神戸ゴム取引所ですが、実際の取引状況はどうだったのでしょうか。
神戸ゴム取引所の取引開始から1997年に合併して大阪商品取引所になるまでの期間について、神戸と東京の先物価格、取引高、取組高(建玉残高)、受渡高を比べてみましょう。
まずは先物価格(期先)の差です。
神戸と東京の先物終値(期先、月足)の価格差
開所から10年の間では1kgあたり5円を超えるような価格差が生じることもありましたが、両取引所の取引が拡大を始めた1960年代後半以降は、1973年の第一次オイルショックの時期を除き、概ね両取引所の先物価格に大きな差は生じていない(=価格が連動している)ことが分かります。
ただし、上図の価格差はあくまでも期先の値段であり、かつ月末時点の終値であることには注意が必要です。
例えば1968年5月から8月における神戸ゴム取引所を舞台にした仕手戦(いわゆる「O社事件」)では、神戸の期近価格が暴騰し、1968年7月の両取引所の高値では13円超の乖離が生じました。この仕手戦における市場混乱の結果、神戸ゴム取引所では通常の決済ができずに建玉の総解合い(緊急措置として取引所が一定の条件の下で強制的に決済させること)を余儀なくされています。
また1995年1月17日の阪神・淡路大震災では、神戸ゴム取引所はビルが倒壊するなど大きな被害を受け、数日間の取引停止ののち1月25日から再開されることになりましたが、その間に東京市場ではゴム価格が暴騰したため、両市場間で大きな価格の乖離が生じていました。この時は、神戸ゴム取引所の値幅制限を7円から3.5円に変更し、かつ取引再開日の東京の価格が大きく下落したことにより、両取引所の価格乖離は月中に解消されることとなりました。
それでは次に、両取引所の取引高、取組高(建玉残高)を見てみましょう。
神戸と東京の一日平均取引高推移
取引開始から1960年代後半までは両取引所とも薄商いが続きますが、取引高が徐々に伸びてくる1970年代から1990年初頭まで、神戸の取引高は東京の50~100%の水準で推移しています。
一般的に同一商品の市場流動性は一つの取引所に集中する傾向がありますが、こちらのデータから、東京と神戸の天然ゴム先物は両輪となって市場の発展に貢献してきたことが分かります。
ただし、1990年代に入ると東京は国内外の投資フローを獲得して大きく取引高を伸ばしていきますが、神戸はこの動きには付いて行けず、1995年の阪神・淡路大震災での被災も影響して徐々にシェアを減らしていくこととなります。
神戸と東京の年末取組高推移
取組高(建玉残高)も取引高の推移と同様、1970年代以降、東京の50~100%の水準となっています。このことから、東京と神戸で取引するプレイヤーは地理による違いはあるものの、プロファイル的には近い投資家層であったことが推測されます。
最後に受渡高も見てみましょう。
神戸と東京の年間受渡高推移
こちらが先物取引を通じて現物の天然ゴム(RSS)が受渡された枚数となります。1970年代初頭では神戸の方が東京より多く、かつ1995年の震災の前後を除いて東京の75%超の水準を維持しています。
このことから、当初の取引所設立の背景の際にも出てきた話ではありますが、神戸には戦後から安定したゴム実需があり、かつ神戸ゴム取引所の天然ゴム先物も調達手段の一つとしてしっかりと活用されていたことが分かります。
神戸ゴム取引所の取り組み
このように一定の取引規模を維持しており、国際化にも積極的に取り組んでいた神戸ゴム取引所ですが、上場商品はRSS3先物のみであり、次第にRSS3先物の単独商品で取引所を存続させるのは厳しい経営環境になっていきました。折しも、東京ゴム取引所が1984年に東京金取引所、東京繊維取引所と合併し、東京工業品取引所が発足した時期でもあります。
そこで1989年より、総合的なゴム取引所となることを目指し、欧米で主力となっていたTSR20の先物の上場計画に着手したものの、当業者団体等から「時期尚早」との意見が相次いだことで1991年に計画が頓挫してしまいます。
そこでTSR20に繋がりのある関連商品の検討を進めた結果、受渡しを行わない「指数」の形で先物を上場することを決め、震災直後の1995年3月10日に、日本初の商品指数先物である「天然ゴム指数先物」の取引を開始することとなりました。
神戸ゴム取引所 天然ゴム指数先物の指数構成銘柄
このゴム指数先物ですが残念ながら定着することはなく、二度の合併を経て中部大阪商品取引所が発足したのち、2010年に取引を休止することとなりました。複数の天然ゴムの混合指数という商品設計のため、ヘッジ目的では使いにくく、かつ取引所の体力が落ちているなかで、指数に投資をするようなプレイヤーを育てることができなかったものと想像されます。
またTSR20先物については、神戸ゴム取引所が合併後の大阪商品取引所において2000年8月に取引が開始されましたが、こちらも2009年に取引が休止されます。
その後、2018年10月に東京商品取引所(現日本取引所グループ傘下)においてTSR20先物が改めて上場することになりますが、残念ながら現在まで取引は低調に推移しています。シンガポールで取引されているTSR20先物の取引高が急拡大を始めるのは2014~15年頃であり、もしこのタイミングで日本にTSR20先物があったとすれば、現在とはまた違った風景になっていたのかもしれません。
大震災とその後の神戸ゴム取引所
神戸ゴム取引所を語るうえで、阪神・淡路大震災に触れない訳にはいきません。
1995年1月17日、阪神淡路地方に大地震が襲います。この大地震によって神戸ゴム取引所のビルが崩壊し、市場が開設できない状況まで追い込まれました。ビル崩落の可能性があるなか、職員が決死の覚悟で倒壊した事務所のコンピュータからデータを取り出し、関係者の必死の努力により、早くも1月25日には大阪繊維取引所の立会場を借りて取引を再開できました。
この震災をきっかけとして、神戸ゴム取引所は1997年に大阪繊維取引所と合併して大阪商品取引所としてスタートすることになります。
過去、1978年に神戸ゴム取引所の大阪移転が検討されたことがありましたが、その当時は神戸の経済界から大きな反対を受けて計画が頓挫しました。この移転計画は取引所の経営基盤の強化を目指し、他商品取引所との将来的な経営統合を念頭に入れたものでしたが、震災という不可避の出来事により、図らずもこの過去に目指した計画が実現することとなりました。
しかし2000年以降に多くの商品取引所の経営が苦境に晒されており、2007年1月に中部商品取引所と大阪商品取引所が合併して中部大阪商品取引所が発足するものの、中部大阪商品取引所は2011年1月に経営不振により解散することとなります。
1952年に開始された神戸ゴム取引所から引き継がれたゴム先物は、中部大阪商品取引所において2009年4月10日にTSR20先物、2010年3月11日に天然ゴム指数先物の取引が休止され、2010年6月25日には、半世紀以上の歴史を持つRSS3先物がとうとうその歴史に幕を閉じることになりました。
神戸ゴム取引所より引き継いだ検査台
今回は日本で最初の天然ゴム先物取引所であり、市場の発展に大きく貢献してきた神戸ゴム取引所についてまとめてみました。残念ながら神戸由来の天然ゴム先物は歴史の幕を閉じてしまいましたが、今でも神戸にはゴム関連の企業が数多くあり、これからもゴムの聖地として輝き続けて行くことでしょう。
※次回の更新は2021年9月7日(火)頃の予定です。
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(著者:大阪取引所 デリバティブ市場営業部 矢頭 憲介)
(東証マネ部!編集部)