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ベースになったのは大坂・堂島の米市場ではない

日本初の取引所「本当のルーツ」とは。歴史の定説を覆すJPXの調査

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日本初の公的な証券取引機関として、1878(明治11)年に誕生した「東京株式取引所(以下、東株)」。現在の東京証券取引所の前身であり、渋沢栄一を中心に設立されたことで有名だが、ここに導入された株式取引の手法は、これまで江戸時代に発展した大坂・堂島の米市場を参考にしたと考えられてきた。しかし実際はそうではなく、別の場所で行われていた取引手法がルーツになったのでは、という調査が出ている。

この内容が記載されたのは、日本取引所グループの「ワーキングペーパー」。市場環境や法制度についての調査・研究を継続的にまとめているもので、2023年5月に発表された「明治期東京株式取引所の株式取引制度」に上述の調査が報告されている。

一体どのような理由から、これまでの“定説”を覆す見解が生まれたのか。そして、東株の本当のルーツはどこにあるのか。詳しい内容について、今回のワーキングペーパーを執筆した東京証券取引所 金融リテラシーサポート部の石田慈宏さんと、名古屋市立大学大学院経済学研究科の横山和輝教授に聞いた。

「大坂・堂島を継承したとは言いがたい枠組みで東株はスタートしている」

株式取引は、大まかに言えば「同じ銘柄の株式を買いたい人と売りたい人のマッチング」によって行われる。取引所の役割はその両者を仲介し、売買取引の成立から実際の決済までを行うこと。これらを「金融仲介機能」という。

東株が生まれたとき、どのようにしてその仕組みは構築されたのだろうか。前例もノウハウもない中で、何を参考に金融仲介機能を作り上げたのか。それが上述した調査の主題になった。

「これまで定説とされてきたのは、江戸時代の大坂・堂島米市場で行われていた『帳合米取引(ちょうあいまいとりひき)』が土台になったというものです。これは米の先物取引であり、現代でも使われている『差金決済(※)』が当時すでに行われていました」

※実際の有価証券を受け渡さず、買い注文に対する売り注文、売り注文に対する買い注文という「反対売買」で確定した損益額(差金)のみを授受する決済方法。

こう話すのは、本調査を中心になって進めた石田さん。しかし、さまざまな資料を改めて分析していくと、その定説に疑問が生じていったという。

「堂島の米市場で先進的な先物取引が当時から行われていたのは間違いありません。しかし調べれば調べるほど、堂島と東株の金融仲介機能の仕組みには、言われているほどの連続性が見られなかったのです。つまり、堂島の取引慣行を継承したとは言いがたい枠組みで東株はスタートしている。たとえば株式を精算する方法を見ても、堂島には『米方両替』といった統括的な精算機関がありましたが、東株には見られません」

この調査をサポートした横山氏も、「東株のルーツは江戸時代の堂島・米市場にあると再三言われてきましたし、私もそう思っていました。しかし今回、東京証券取引所に保存されている資料を改めて調べる機会があり、さまざまな事実を照らし合わせる中で違うことが明確に。これらを現時点での記録として残すことにしました」という。

この調査の始まりは数年前にさかのぼる。大河ドラマなどにより、渋沢栄一の功績に世間の注目がふたたび集まる中、その先人が作り上げた東株をはじめ、日本の証券市場の歴史を改めて整理しようとしたのがきっかけ。そこで東京証券取引所の資料室に眠る文献などを改めて調査していった。

なかでも石田さんが特に知りたかったのは、東株が出来て間もない頃、人々はどうやって株式の売買や決済を行っていたのかという点だ。

「いままであまりこの部分は注目されず、また当時は投資家保護の重要性が浸透しきっていない時代で、具体的な売買の方法を記録した資料はほとんど残っていません。しかし、私たち取引所の人間が気になるのは、株式売買の具体的なオペレーション、実務面です。そこで数少ない資料を調べ、また当時関わっていた人の発言などを照らし合わせてその実像を探っていきました」(石田さん)

こうして2人で資料を分析する日々が始まった。「残された記録を見ていくと、日本初の取り組みということで、設立直後は制度や仕組みが短期間で頻繁に変わっています。まずはそれらを時系列で整理するのに苦労しました」と横山氏。次第に当時の売買手法やその周辺の仕組みの輪郭がはっきりしてくると「江戸時代の影響を受けた部分はないとは言い切れないが、少なくとも大きなルーツは違うとわかってきたのです」と続ける。その根拠は先述の通り、参考にしたというには、あまりに違うシステムが使われていたからだ。

本当のルーツとして浮かび上がった「横浜の洋銀取引」


ここまで調査が進むと、2人の関心は「東株のシステムはどのように作られたのか」という点に移っていく。

「可能性として2つのあらすじが考えられます。1つはゼロから完全にオリジナルで取引制度を構築したこと。しかし、それにしては当時の制度や取引の記録があまりに少なすぎました。ゼロから仕組みを作るには相当な試行錯誤が必要ですし、制度を逐一記録することが不可欠です」(横山氏)

そこで「残されたもう1つのあらすじ」が浮かび上がる。それは、どこかで行われていた取引方法が移植されたという展開だ。

「このあらすじなら、取引方法についての記録が少ないこともむしろ不自然ではありません。すでにほかの場所で成熟した仕組みを踏襲していたとなれば、実務にあたる当人たちにとって特別目新しいことではない取引方法をそのまま継続していたことになります。だからこそ、記録に残す必要を感じなかったのではないかと」(横山氏)

その視点で調査を進めるうち、2人の間に「本当のルーツ」として浮かび上がってきたものがある。同時代に横浜で行われていた「洋銀取引」だ。洋銀とはメキシコドルのことで、メキシコ銀貨と日本銀貨の交換が横浜で行われていた。この洋銀取引でも、現物取引と先物取引の両方があり、その慣行を東株に持ちこんだ可能性が高いと2人は見ている。

「横浜の洋銀取引をルーツだと考える理由は2つあります。まず、東株の設立に携わった顔ぶれの中に横浜の洋銀取引で活躍した人が多数いること。田中平八や今村清之助はその代表です。そしてもう1つ、東株の取引手法が横浜のそれと非常に似通っていることです」(石田さん)

横浜は開港以降、生糸の輸出により巨額の大金が動く場所となった。その中で取引所が作られ、金融システムも急速に発達したという。中心には田中と今村がおり、とりわけ前者は「当時すでに差金決済による外為取引所、つまり現在のFXに近いシステムを作っていました」と石田さん。

「田中と彼の父や息子は東株の株主になっており、一族の持ち株は渋沢より多くなっています。また政府に提出した資料に載る初期株主の名前も、2番目に渋沢、3番目に今村、10番目に田中が記されており、重要な人物であったことは間違いありません」

実際に東株の取引システムと横浜の洋銀取引を比較すると、似ている箇所が多数あるという。たとえば東株の開業当初に取り入れられた「つかみ合い」という取引手法や、取引スケジュールの単位として採用されていた「節」は、横浜の洋銀取引で使われていたものだった。特につかみ合いは堂島の帳合米取引とは相容れない形式だという。

だとすると、やはりルーツは江戸時代ではなく、同時代に横浜で実践していた手法を、その当事者が東株に持ち込んだのかもしれない。だからこそ、記録に残らなかった可能性がある。

今回のワーキングペーパーの内容はここまでであり、今後は横浜の洋銀取引と東株の関係を「より深く調べていきたい」と石田さんは意気込む。

「私は『日本人の金融リテラシー向上』を目指す部門にいますが、日本は欧米に比べて金融リテラシーが低いと言われることも少なくありません。その背景を考える上で、もしかすると日本の株式市場の歴史や、それによって生まれた欧米との証券市場の違いが関連しているかもしれない。金融リテラシーへの歴史の影響を捉える意味でも、調査を継続していきたいと考えています」

日本の公的な証券取引機関の“始まり”となった東株。そのルーツを探ることは、この国で先人たちが株式投資の仕組みをどう構築し、一般の人々にどう伝えていったかを知ることになる。それは、現代における日本の株式投資の仕組みや、投資と向き合う人々の心持ちを理解することにもつながるはずだ。歴史を探究する2人の活動には、そんな大切な意義がある。

(取材・文/有井太郎 撮影/森カズシゲ)

※記事の内容は2023年8月現在の情報です

著者/ライター
有井 太郎
ビジネストレンドや経済・金融系の記事を中心に、さまざまな媒体に寄稿している。企業のオウンドメディアやブランディング記事も多い。読者の抱える疑問に手が届く、地に足のついた記事を目指す。
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