人はほどよく合理的であることをふまえた学問

わざわざ「1980円」という半端な価格にするのはなぜ? 「行動経済学」がいざなう消費者心理の世界

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お金にまつわる学問はたくさんありますが、その中には「知っているようで知らない学問」も多いのではないでしょうか。これらを詳しく理解すると、自分の家計や貯蓄、資産運用のプラスになるかもしれません。

そんな考えのもと、取材を通してお金にまつわる学問を深掘りする本連載。今回のテーマは「行動経済学」です。お話を聞いたのは、東京大学大学院経済学研究科・経済学部の阿部誠教授。行動経済学を知ると、お金の使い方や買い物の仕方にも役立つとのこと。詳しく聞きました。

なぜ価格を下げたら、売上も落ちた?

――行動経済学は、一般的な「経済学」とどう違うのでしょうか?

阿部 分かりやすい例を一つお話ししましょう。あるアメリカの高級オーディオメーカーが、日本での売上を伸ばそうと製品の価格を下げたら、反対に売上が落ちたことがあります。

伝統的な経済学では、値段が上がると需要が下がるという「右下がりの需要曲線」と呼ばれる考え方がありました。とすると、このオーディオメーカーの場合は、値段を下げたのですから需要は上がるはずです。しかし、実際はその逆となりました。

このように、実社会では「伝統的な経済学では説明できない経済現象」がたくさん出てきました。その中で台頭したのが行動経済学です。

――伝統的な経済学では説明できない経済現象……

阿部 はい。伝統的な経済学では、大前提として、人は超合理的に、超自制的に、超利己的にふるまうことを仮定して理論を構築しています。ですが、私たち人間は必ずしも超合理的ではありませんよね。ほどよく合理的なんです。

そこで、伝統的な経済学では考慮されていなかった生身の人間行動を「心理学」で解き明かし、経済理論を拡張させようとしたのが行動経済学です。端的に言えば「経済学+心理学」といえますね。

高級オーディオメーカーの売上が下がった理由も、人間の心理を考慮するとある程度説明がつきます。まず、製品の「価格」には三つの代表的な意味合いがあります。一つは「経済的な痛み」。要は値段が高くなると欲しくなくなる。これは伝統的な経済学の概念ですね。しかし価格には、「品質のバロメーター」としての意味合いや、高いブランド品を買うことで所有欲を満たしたり、人に自慢したりといった「プレステージ」の意味合いもあります。

特に後ろ二つは高級メーカーにとって重要な要素です。それをふまえると、値段を下げたことで売上が落ちた現象も理解できるのです。

もう一つ面白い例を紹介しましょう。ダン・アリエリーという行動経済学者が行った実験で、人の消費行動にどれだけ心理が関わっているか実感できるものです。

ある経済誌を年間購読するとして、以下二つの料金体系があったとします。どちらを選びますか?

A:WEB版(59ドル)
B:WEB版+印刷版のセット(125ドル)

――WEB版のみの方が安いですし、印刷版と両方読む必要もないので、私は「A」を選びますかね。

阿部 同じ質問を学生にすると、68%がAを選択しました。多くの人が同様の考えですね。しかし、選択肢がもう一つ加わって以下のようになると、学生の回答は大きく変わりました。

A:WEB版(59ドル)
B:WEB版+印刷版のセット(125ドル)
C:印刷版(125ドル)

――どう変わったんですか?

阿部 Bを選んだ人が84%と大幅に増えたのです。Aは16%、Cを選んだ人はゼロでした。

――なんと、AとBの割合が一変しましたね。

阿部 私はこの現象を「おとり商品の罠」と呼んでいます。どういうことかというと、Cの選択肢が“おとり”になっているんですね。印刷版のみで125ドルという選択肢ができたことで、Bは実質的に「WEB版が無料」と捉えることができる。すると、途端にBがお得に見えてくるのです。

伝統的な経済学なら、各商品、選択肢を純粋に比較するので、Cの選択肢が追加されても影響は受けないはずです。しかし、実際は人間の思考や選択はこういうものに左右されるんですね。

タウリン1000mgを「1g」と表記しないのは?

――行動経済学の中には、日常の買い物やお金の使い方に通じる理論もあるのでしょうか?

阿部 買い物の場面だと、「フレーミング効果」は馴染みがあるのではないでしょうか。栄養ドリンクで「タウリン1000mg」という表記を見ますよね。1000mg=1gですから、仮に「タウリン1g」と表記しても意味合いは異なりません。しかし、印象は大きく変わりますよね。このように、表現の仕方によって印象が大きく変わることをフレーミング効果といいます。

――確かに、1gだと「たくさん入っている」とは感じないかもしれません。

阿部 その他では「サンクコスト効果」も分かりやすいですね。すでに投資して回収できない費用を「サンクコスト(埋没費用)」といいますが、それらの投資した費用や労力、時間を「もったいない」と考えて、損をする可能性が高くてもやめられないのがサンクコスト効果です。

例えばスポーツクラブの年間会員になったとして、最初の2ヶ月ですでに面白くなくなり、かつ他に良い運動の機会が見つかったのに、「せっかく1年分の費用を払ったから」と、仕方なくスポーツクラブに通い続けるなど。

投資でも、一度損したお金は戻ってこないのに、それを取り戻そうとどんどん大きな金額を投資してしまうことがあると思います。あるいは、株の売買をするにも、これまでに損した金額をふまえて判断してしまうなど。

――それは……、心当たりがあります(笑)。そもそも行動経済学は、いつ頃から出てきた学問なのでしょう?

阿部 1970年代後半に、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーという2人の心理学者によって確立されました。行動経済学はその後に浸透し、今では行動経済学と経済学が別物ではなく、経済学の一部にその概念が組み込まれていると考えています。

例えば、東京大学経済学部で「行動経済学」と名のつく講義は、経営学科である私の授業以外にありません。それは、経済学の各分野でこの概念が展開されているからだといえます。もちろんビジネスの世界でも、マーケティングなどに行動経済学の考え方や概念は活用されています。

製品の差別化が難しい時代、行動経済学の活用が重要に

――やはり企業のマーケティングにも、行動経済学が活用されているのですか?

阿部 そうですね。先ほどの「1000mg」も一つの例だと思いますし、それ以外にも、よく「1980円」などの“端数”で終わる価格の商品を見ますよね。なぜ2000円ではなく、わざわざ1980円にするかといえば、人間は上の桁から数字を読んでいくので、最初の「1」という数字を強く認識します。実際はほぼ2000円でも“1000円台の商品”というイメージがつくのです。

一方、コンビニのおにぎりを見ると、割引の方法として「2割引」ではなく「全品100円」といった打ち出し方をしている店舗が見られます。おにぎりのような100円単位の安価な商品は、割引率を出すより、全品100円と価格を示した方が安さを感じやすい傾向にあります。企業はつねにこうした消費者心理を考えながらマーケティングを行っていますし、近年その重要性は増しているでしょう。

――なぜ重要性が増しているのですか?

阿部 最近は「商品のコモディティ化」と言われるように、商品の機能や品質で差を出すのが難しくなっています。どの企業も同じレベルのものが出せるようになってきました。すると、差別化を図るには、その商品にどんな付加価値をつけるか、どう手に取ってもらうかがポイントになってきます。行動経済学の考えが重要になってきますよね。

しかも最近は細かなデータが取れるようになり、顧客一人一人の購買行動や傾向まで分析できるようになってきました。すると、一人一人の「異質性」が見え、より細かなマーケティングができます。

――異質性とは何でしょうか?

阿部 簡単に言えば、一人一人の違いです。例えば、消費者それぞれの価格感度は異なり、100円の値上げをしても同じ商品を買い続ける人もいれば、別商品に切り替える人もいるでしょう。価格に対して受ける影響は人によって差があります。

近年は、こうした異質性を考慮したマーケティングを行えるようになってきました。CRMというツールを使い、一人一人の行動データを分析して、相手に合わせて打ち手を変えるのです。例を挙げるなら、価格感度の高い人にはメルマガで割引の大きいクーポンを送るなど。全員一律に同じクーポンを発行するよりも、限られた予算で最大限の効果を発揮できます。

こうした潮流の中で、今後ますます行動経済学はマーケティングに活用されていくでしょう。そしてそれが、企業の競争力につながると考えています。

(取材・文/有井太郎 撮影/森カズシゲ)

※記事の内容は2024年7月現在の情報です

お話を伺った方
阿部 誠
東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授
1991年マサチューセッツ工科大学博士号(Ph.D.)取得後、2004年から現職。ノーベル経済学賞受賞者との共著も含めて、マーケティング学術雑誌に論文を多数掲載。行動経済学の研究対象である人間の知覚バイアスや選好逆転に着目し、計量・統計モデルを用いて得られた分析結果をマーケティングに応用する研究を行っている。2003年にJournal of Marketing Educationからアジア太平洋地域の大学のマーケティング研究者第1位に選ばれる。日本マーケティング・サイエンス学会の代表理事、学会誌前編集長。主な著書に『大学4年間の行動経済学が10時間でざっと学べる』『大学4年間のマーケティングが10時間でざっと学べる』『東大教授が教えるヤバいマーケティング』(共にKADOKAWA)、共著書に『(新版)マーケティング・サイエンス入門:市場対応の科学的マネジメント』(有斐閣)などがある。
著者/ライター
有井 太郎
ビジネストレンドや経済・金融系の記事を中心に、さまざまな媒体に寄稿している。企業のオウンドメディアやブランディング記事も多い。読者の抱える疑問に手が届く、地に足のついた記事を目指す。
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