高橋是清は何をした人?政策や日本史の重要事件との関係も解説
高橋是清は、大正から昭和初期にかけて日本銀行総裁や大蔵大臣、内閣総理大臣などを歴任した政治家です。大蔵大臣在任中に打ち出した彼の政策は、「高橋財政」と呼ばれています。
高橋財政の特徴は、円安政策や積極財政です。現在の金融政策に通じる部分もあるため、理解しておくとビジネスや投資などで役に立つでしょう。
本記事では、高橋是清が成し遂げたことや、具体的な政策について解説します。
高橋是清とはどんな人?
高橋是清(たかはし・これきよ)は、大正から昭和初期にかけて活躍した政治家です。彼の略歴を以下にまとめました。
・1854年:江戸で生まれる
・1867年:留学生として渡米(1869年帰国)
・1873年:文部省に出仕
・1887年:特許局長に就任
・1892年:日本銀行に入行
・1911年:日本銀行総裁に就任
・1913年:政友会に入党
・1921年:第20代内閣総理大臣に就任
・1922年:内閣総辞職(その後も何度か大蔵大臣を務める)
・1936年:二・二六事件で暗殺される
ここから、高橋是清に関するいくつかのトピックを紹介します。
教師・特許局長などさまざまな仕事を経験する
1869年に留学先の米国から帰国してから、高橋是清は英語教師や文部省職員などとしてさまざまな仕事を経験しました。文部省から農商務省に移ってからは、商標制度や特許制度の制定に尽力して商標登録所所長、専売特許局局長、特許局局長(初代特許局長官)などを歴任しています。
その後は、要職に就いていたにもかかわらず1889年に退職し、海外進出を目指して南米に渡ってペルーで銀山開発に取り組みました。
日本銀行で活躍する
ペルーでの銀山開発がうまくいかず日本に帰国していた高橋是清は、農商務省時代の先輩の紹介で日本銀行に就職します。
当初「建築事務主任」として採用された高橋是清でしたが、入行2年目には九州全域を管轄する西部支店の初代支店長、1899年には副総裁に就任しています。副総裁時代の主な実績は、日露戦争の戦費を調達するための外債発行、金本位制の確立などです。
その後も着実に実績を積み上げ、1911年には日本銀行の総裁に就任しています。
政界進出後に内閣総理大臣を務める
高橋是清は、日本銀行の総裁を1年8カ月務めてから本格的に政界に進出しました。
政界進出後は、第一次山本権兵衛内閣や原敬内閣にて大蔵大臣(現・財務大臣)を務めています。1921年には原敬(東京駅で暗殺)の後を継いで内閣総理大臣に就任するも、閣内を統一できずに就任から7カ月で総辞職しました。
なお、当時の内閣総理大臣である犬養毅が暗殺された際(五・一五事件)にも、当時大蔵大臣を務めていた高橋是清が臨時で総理大臣を兼務しています。
大蔵大臣(現・財務大臣)を七度務める
内閣総理大臣に就任する前後(1913〜1936年)で、高橋是清は計7回も大蔵大臣を務めています(うち1回は内閣総理大臣と兼務)。
大蔵大臣を務めるなかで、高橋是清はさまざまな政策を打ち出しました。特に、1931年12月から36年2月(犬養内閣・齋藤内閣・岡田内閣)にかけて高橋是清が大蔵大臣として打ち出した政策を「高橋財政」と呼ぶことがあります。
二・二六事件で生涯を終える
高橋是清は、1936年2月26日に発生した二・二六事件で暗殺され、81歳でその生涯を終えました。
二・二六事件とは、陸軍の青年将校らが天皇を中心とする軍事政権の樹立を目指し、日本政府の重要閣僚ら9名を殺害した事件です。軍事費抑制方針を示して軍部と対立していたことが、高橋是清が標的とされた理由と言われています。
高橋是清が活躍した時代に起こった主な出来事
高橋是清や高橋財政のことを理解するうえで重要な出来事が、以下の通りです。
・日露戦争
・大正デモクラシー
・世界恐慌・昭和恐慌
それぞれの出来事の概要と、高橋是清との関係について解説します。
日露戦争
日露戦争とは、満州や朝鮮をめぐっておこった日本とロシアの間の戦争です。1904年2月に開戦し、1905年8月から米国で開かれた講和会議においてポーツマス条約が締結されたタイミング(同年9月)で、終結しました。
日露戦争開戦直後、日本政府は戦費調達を目的として当時日本銀行副総裁であった高橋是清に米国や英国の銀行家との交渉を託します。交渉の末、高橋是清は英国で500万ポンドの外債発行に成功しました。
その後、米国でも外債発行に成功し、最終的には計1億3,000万ポンドの外債を発行しています。
大正デモクラシー
大正デモクラシーとは、薩摩・長州など一部の藩の出身者に政権が占められていること(藩閥政治)を批判し、民主主義や自由主義を要求する思想やその運動のことです。大正時代に広がったため、大正デモクラシーと呼ばれています。
大正デモクラシーを象徴する人物のひとりが、藩閥に属さず華族でもないため「平民宰相」と呼ばれた原敬です。高橋是清は、原敬が総裁を務める立憲政友会に所属していました。
世界恐慌・昭和恐慌
世界恐慌とは、1929年10月24日に米国で株価が大暴落して、不景気を引き起こした出来事のことです。米国で銀行・工場の倒産や多数の失業者が出現するのにとどまらず、各国にまで不景気が広がりました。
世界恐慌に伴い日本の貿易もダメージを受け、企業の倒産や人員削減などが発生します。このように、世界恐慌をきっかけに1930〜1931年にかけて日本で発生した不況が、昭和恐慌です。
昭和恐慌後に大蔵大臣に就任した高橋是清は、高橋財政と呼ばれる政策を打ち出し、景気回復を図りました。
高橋財政の特徴
高橋財政の主な特徴は、以下の通りです。
・金輸出の再禁止
・円安政策
・積極財政
それぞれ解説します。
金輸出の再禁止
1931年に、高橋是清は金輸出を再度禁止し、管理通貨制度を採用することを決めます。
前年に浜口雄幸内閣(井上準之助大蔵大臣)のもとで、外国為替相場の安定や輸出の拡大を目的として金の輸出が解禁されていました。しかし、結果的に円高を招いていたため、高橋是清は金本位制からの離脱を決めます。
金本位制が各国の中央銀行が保管している「金」を基準に通貨を発行するのに対し、管理通貨制度は国家が発行量を決める制度です。管理通貨制度を採用することで、今まで以上の通貨を発行できる可能性があります。
円安政策
高橋是清は、円安政策(低為替政策)も推し進めます。
まず、円高を招いた金輸出を再度禁止したことが、円の下落につながりました。また、円の防衛を目的に設定していた高金利を低金利に切り替えたことも、円安政策のひとつと言えるでしょう。
円安政策を推進したことにより、日本は東南アジアなどで綿布の輸出量を伸ばし、1933年には英国を抜いて綿布輸出量世界第一位の国となりました。その結果、恐慌からの脱出に成功しています。
円安の仕組みや、円安になることで社会にどのような影響を与えるのかについて詳しく知りたい方は、以下の記事を参考にしてください。
積極財政
高橋是清は、積極財政も進めています。
景気が良いときに財政を引き締めて需要を抑える緊縮財政に対し、積極財政は景気が悪いときに財政を出動して需要を刺激する方法です。高橋是清は、赤字国債を発行して調達した資金を使うことで需要を刺激し、景気の回復を図りました。
高橋是清の推進した積極財政が、インフレーションの要因になったとも言えます。インフレーションとは、モノの値段が全体的に上がる一方で、お金の価値は下がることです。
インフレーション・デフレーション・スタグフレーションの違いについては、以下の記事で詳しく解説しています。
スタグフレーションとは?原因・対策や過去の事例についても詳しく解説
高橋是清のエピソード
高橋是清は、トラブルに巻き込まれることも多い人物でした。
1867年に米国に留学した際は、ホームステイ先で奴隷として身売りされてしまいます。その後、身売りの契約が破棄されて解決しますが、大変な苦労をしたことでしょう。
ペルーに渡った際には、現地で詐欺にあって銀山開発に失敗します。そのため、帰国する際は無一文だったとのことです。
このように、さまざまな困難を乗り越えながら、高橋是清は日本銀行総裁や内閣総理大臣の座に就くようになります。
高橋是清は昭和恐慌時の大蔵大臣
高橋是清は、日本銀行総裁や大蔵大臣、内閣総理大臣などを経験した政治家です。昭和恐慌時には、金輸出の再禁止・円安政策・積極財政を中心とした高橋財政を打ち出し、不況から脱却するきっかけを作り出しました。
積極財政は、近年の政治においても注目されることがある政策のひとつです。積極財政により経済の活性化や雇用拡大などを期待できる一方で、財政赤字が拡大して健全化が進まなくなる可能性もあります。
この機会に、高橋是清の政策と近年の政府の景気対策を比較してみてはいかがでしょうか。
参考:国立国会図書館「近代 日本人の肖像 高橋是清」
参考:特許庁「初代特許庁長官高橋是清について」
参考:日本銀行「第7代総裁:高橋是清(たかはしこれきよ)」
参考:首相官邸「第20代 高橋是清 内閣総理大臣」
ライター:Editor HB
監修者:高橋 尚
監修者の経歴:
都市銀行に約30年間勤務。後半15年間は、課長以上のマネジメント職として、法人営業推進、支店運営、内部管理等を経験。個人向けの投資信託、各種保険商品や、法人向けのデリバティブ商品等の金融商品関連業務の経験も長い。2012年3月ファイナンシャルプランナー1級取得。2016年2月日商簿記2級取得。現在は公益社団法人管理職。


